第95回 人間関係を考える(5)~「狼少女」を生まない教育(上)~
“止まり木”求め さまよう心(山陰中央新報) | 2002年7月28日
人と人との関係の在り方を規定する重要な視点の一つとして、前回「良心」について触れました。「良心」とは幼い頃からの生活の場において、周囲とのバランスで人の行動を無意識下に方向づけるものです。人は幼い頃からの周囲とのやりとりを無意識領域に蓄積しています。それは安全かつ安心して生きるためのノウハウを覚え込んでいるわけで、非常に大切な能力といえます。
このような生活体験を通しての無意識下の蓄積は、その内容と生活する環境が一致する場合には非常に有効に機能しています。しかしこの両者のギャップが大きい場合、状況に一致しない無理な姿勢を維持しようとするため、そのストレスと苦痛は非常に大きなものとなってしまいます。極端なものとしては、狼に養育された狼少女や、カルト教団などで長期間養育された子どもたちといったものが例としてあげられると思います。
《狼少女の悲痛な生涯》
1920年にインドで狼に養育されたヒトが発見されました。発見当時1歳半と8歳と推定されたこの二人の少女は牧師夫妻に引き取られ、非常に献身的な養育を受けました。しかしアマラと名づけられた年下の少女は発見後1年くらいで亡くなってしまいました。年上のカマラの方はその後9年間教育を受け続けましたが、推定17歳で死亡しました。その時点までの教育により彼女が成し得たのは、3歳幼児程度の会話と不完全な直立歩行であったといいます。発見当時、彼女らは四つ足で歩き、手を使わずに生肉を食べ、夜になると目はランランと輝かせて遠吠えをしたといいます。
この狼少女の話は、発達心理学で基本的能力の取得の時期を云々するためによく引用されるのですが、筆者としてはこの事例をそんな観点からはとてもみることができません。このケースが示しているのは、言葉を覚える時期などという問題ではないと思うのです。彼女らはこれ以上望めないほど「良心的で善意と愛情に満ちた」養育を牧師夫妻から受けました。しかしそれは明確な方向性をもっていました。彼女らの狼的なものの否定と修正です。すなわちそれは彼女らがこれまでの環境の中で生きるために無意識領域に蓄積されたもの、彼女らの行動を方向付ける「内なる親」を根こそぎ全部否定するような「暴力」であったといわざるを得ないのです。魚を強制的に陸で生活させるようなものといえるでしょう。これまでの生き方が生活全般にわたって通用しなくなったのです。このような計り知れないストレスの中では「言葉の学習」どころではありません。身体的なダメージも相当なものとなるでしょう。
《狼少女を量産する現在の状況》
子育てというものを「核家族」と「母親幻想」に依存しているような現在の状況は、狼少女とまではいかなくとも「無意識下の蓄積」と「成長後の社会環境」の不一致が生じやすいといえます。家族というものは一歩間違うとカルト教団か全体主義国家のような様相を呈してきます。その中で極端な体験の積み重ねは、子どもの将来の社会生活における苦悩の源泉となってしまうでしょう。
次回もう少しこの点について触れたいと思います。