第88回 「自己感覚」を生きる(6)~日本人の目的喪失~
“止まり木”求め さまよう心(山陰中央新報) | 2002年5月26日
私たちの心穏やかな生活の基礎となるのは,自分にとって未知であったり、コントロールの及ばない領域と共存する姿勢であることを前回述べました。他者も自分もコントロールはできません。私たちは常にあせっています。私たちが心地よく生活するためにはどのようにしたらよいのでしょうか。
《目的なき軍隊システム》
日本の大人や教育関係者の大半は個性より協調性を重視するといわれています。しかし「個性を抑え込むことが協調性に繋がる」という考え方で、ほとんど根拠がないのに一律のものを押しつけ、従わないと「わがまま」として人格否定すら辞さないという協調性重視の教育方針には大きな問題があるでしょう。「自分の感覚でものごとを判断すると人に否定される」という刷り込みを幼い頃からなされ、自分の感覚を大事にしない、自分でものを考えないという癖がついた子どもたちはさまざまな人間関係における苦労を背負います。
彼らは親しい人にも腹を割って話しません。親しい人だからこそかもしれません。腹を割って話して、それが否定されて傷つくことを恐れてしまうのです。かくして延々と相手のイメージから逸脱しない自分を演じながら友人とたわむれ続けることになります。
また大人の根拠のない押しつけに振り回されてきた彼らは一転して今度は自身が「加害者」に転じます。大人の思い込みを押しつけてこられたのと同様の方法で、他の級友の言動を「わがまま」「むかつく」などと一方的に決めつけて否定するというイジメを行うのです。
「自分で考えること」「自分の感覚で判断すること」をここまで規制するのではまるで軍隊ではないでしょうか。軍隊には戦争に勝つという明確な目的と意志があってはじめてシステムが維持できます。しかし今の日本は戦時中でもなければ文字どおり「食うため」の経済戦争をしているわけでもありません。それなのに明確な目的もないままに命令を乱用するシステムだけが惰性のように続いているのです。
《空回りする「頑張り」の行方》
このような目的なき軍隊システムの中で私たちは個人の感覚を大切にすることをないがしろにしてきました。本当の戦争ならば、集団の凝集性が高まり、「自己」の感覚が集団に拡張され、集団としての目的達成に向けた行動の遂行が「快感」となるでしょう。そのような時は「個人の感覚」はあまり意識されない状態になります。また集団を維持する規範の遵守行動が積極的になります。戦争中の犯罪率や自殺率の低下はこのためです。また高度成長時代に夜間も休日もなく働いたり、驚くほど高い就学率と登校率を示していたのは「頑張る」ことが集団の方向性に沿っており自己肯定につながる早道であったからでしょう。
経済的な達成を経て、非常に多様な方向性が出現してきた結果、日本人は「頑張る」目的を失っています。「働かないと食えなくなるよ」などいうセリフはあまり説得力をもちません。今の日本人にとって、経済的困窮のための病や餓死のリスクより、過労死や無理に伴う病気の方に現実味があるからです。自明でない目的のためにずっと頑張れるほど、人はロボットにはなれません。
現代人が「頑張れなくなってきている」のは以上のような理由です。しかし頑張れていた幸せな時代を取り戻そうと、無理やり目標を設定しても結局「頑張れず」落ち込んでしまうだけでしょう。自然な活力のもとに生きるための工夫を次回考えていきたいと思います。