第84回 「自己感覚」を生きる(2)~窒息する実存~
“止まり木”求め さまよう心(山陰中央新報) | 2002年4月28日
オウムに集った若者たちの報道で「有名大学」「医師」「弁護士」「エリート」「美女」などという記号に世間が反応したことを前回話題にしました。これは私たちがそれらに勝手な幻想を抱いているためでしょう。
《親たちの幻想》
同じように世の親は自分の息子や娘に勝手な幻想を抱いています。酒鬼薔薇少年が親に「医者になれ」と言われ続けていたように、世の親は自分たちが安心できる幻想の鋳型に子どもたちを押し込めようとします。たとえそれが高度成長時代にのみ有効であったすでに賞味期限切れたような価値観であったとしてもです。そのような親たちにとっては、自分で物事を判断できる子どもなどは単に「親のいうことをきかない子」でしかありません。また、想像力が豊富であったり、自分の感覚での心地よさにこだわる子どもは「無駄なことばかりしている駄目な子」ということになってしまうのです。日々そのような親の反応にさらされていたら「どうせ自分なんて」という自己肯定感の低下に陥らないでいることは困難です。キレる少年や援助交際少女たちに共通するのはこのような感覚です。
《回避される食卓》
子どもが居場所を失っているような家庭、平たくいえば子どもが食卓を回避したくなるような家族というのは、典型的には以下のようなものです。
会社のポストやカネなどに自分の存在価値をかけているストレスフルな父親がいて、その不安定で脆弱な男を怒らせないように気を遣う母親がいます。そのような父親は、妻や子どもを支配することを介して自分の脆弱な存在基盤を補填しています。そのため非常に頑固で、日々の説教や大声での叱責でも足りず、物がとんだり、暴力を奮うことすらあります。そのような父親に対して母親も対等なコミュニケーションをしようとしません。「怒らせると怖いから」とその場を繕い、子どもにもその上辺を整えることを要求してやはり叱責します。
そのような表面を取り繕うことがルールであるような家庭は、子どもの実存が窒息してしまいます。子どもはそのような親が考えるように「言うことをきくかわいい娘」でもなければ「素直で優秀な息子」という鋳型にはめこまれるだけの存在ではありません。子どもとはひとつの存在です。それ自体が欲求を持ち、感覚をもち、それを満たすために活動するものであり、親の脆弱性を補填する世間向けのファッションではないのです。
《幻が揺らぐとき》
このような生活がいかに苦痛に満ちていても、「世間並みの家庭」というイメージを、自分の感覚よりも優先するスタイルでいる限り、「幻の幸せ」を維持するためだけの虚しい努力の日々が延々と続きます。
しかしそのような緊張にみちた外見上の安定の中で、時に変化の兆しが生じることがあります。その多くは親がこだわるイメージを打ち壊すような子どもの「問題行動」です。