第70回 「パワー」から「コミュニケーション」へ(1)~角を矯めて牛を殺す~

 社会は大転換点を迎えています。それは抽象的なものではなく、「目的に向けた根性や努力、策略やパワーが全て」であった時代から、「コミュニケーションが全て」という時代への大転換です。
 共同体としての価値観が自明であり、それに向けた不断の努力と達成、それに伴う権力が「共同体における承認」につながり、それが個人としての幸福にも結びついた時代は急速に終焉しつつあります。「巨人の星」などいわゆる“ド根性モノ”の漫画が再び脚光を浴びたり、NHKの「プロジェクトX~挑戦者たち~」のような番組が人気となったりしているのは、そのような「わかりやすい時代」へのノスタルジーでしょう。

 

《“溺れる”人々》

 しかし私たちはこれまでの考え方をなかなか転換できません。いえ、かえって追い詰められて不安になればなるほど、まるで溺れる人があがくように、かえって子どもや自分自身に「やらねばならぬこと」を押しつけていきます。そして当然余計にバランスを崩し、焦りと悩みの深みにはまっていきます。
 学歴やら権力やらの何らかの努力による達成が、人間をゆったりと肯定し幸福にする力をもつことはありません。その証拠にそのような達成を得た多くの人が、真に満足することなく、その力を乱用し、他者に被害を与えています。
 努力の末の達成という“意味”にすがる人は、 “無意味な”ことに幸福を見いだせません。努力も達成もない幸福などというものがあることを信じられないのでしょう。だから自分や他人をコントロールします。そして体裁を考えすぎて幸福を逃します。まさに「角を矯めて牛を殺す」という手段と目的の倒錯が生じているのです。
 社会のすさまじい変化の中で、このような被害者、加害者が続出しています。さまざまな場面で、同じ人が加害者であったり被害者であったりしています。

 

《“悩み”はなぜ生じるか》

 個人的な悩みの形はさまざまです。「思うように行動できない」「やってはいけないと思うことをやめられない」「身体的な不快や苦痛の持続」「うつや不安」「生きる実感や感情の希薄さ」「家族の借金や暴力」など多様な形で生じてきます。溺れる人があがけばあがくほど沈んでいくように、追い詰められるほどに以前のやり方や考え方に固執し、そして解決から遠のきます。
 “悩み”とはこれまでのものの見方や行動様式などでは解決困難な事態に遭遇した際に生じます。たとえば思春期の悩みというのは、次々とわが身に起こる身体や欲求の変化により、それまでもってきた“自己イメージ”と自分自身との間の距離が大きくなってしまうために生じてきます。解決には親世代だけでなく同性グループの連帯における安心がとても大切になります。
 悩みを解決できたり、人が変化したりする際に大切なのは理屈や説教ではなく“体験”です。変えられるものを変えたり、変えられないものを受け入れる決心をしたとき、それによってもたらされる新しい体験を経て、人は本当に変化していきます。
 次回以降、「親子関係」などにおける多くの人の悩みに触れながら、解決に結びつく「正しい」悩み方について触れたいと思います。