第69回 コミュニケーションを考える(12)~学級崩壊への処方箋(下)~

 前回、子どもの自己選択を拡大する教育システムに少し触れました。このような子どもが自分で選択する機会を増やす(子どもの自己決定権を拡大する)というシステムは、自分で試行錯誤を行って、自分で責任をとり、自分の生活スタイルを作り上げていくという方向性をもっています。現在の社会状況下で一つの価値観で全体を統制することが不可能である以上、全く異なる価値観をもつ他人と共生するルールと技術を身につけていくことは必要不可欠といえます。このような基礎的なコミュニケーション能力を育てるという視点は、今後の義務教育の重要な柱といえるでしょう。

 

《少年の責任能力》

 少年の凶悪犯罪が相次いだことから、少年法改正など厳罰化の方向に動いています。日本の刑法は「責任主義」を採用していますから、犯罪行為に故意も過失も認められなかったり、心神喪失が存在したり、責任年齢に達していなかったりすると処罰されません。わが国における刑法の責任年齢(14歳)は「16歳未満は刑事裁判の対象から外す」という少年法の刑罰対象年齢の規定から実質16歳に修正されています。そのため責任年齢の14歳に達していた酒鬼薔薇少年も刑事裁判にかけられることなく医療少年院送致という保護処分となりました。
 この少年法の刑罰対象年齢や刑法の責任年齢を引き下げる論議が活発に行われていましたが、「子どもの人権」とか「被害者感情の救済」などという言葉の応酬であり、あまり建設的な議論になっていない印象を受けます。どちらかというと「被害者感情」の方に世論が共感しやすいために、厳罰化の方向に動いていると考えられます。しかし子どもに自己責任を求めるということは、子どもに自己決定権を与えることとセットでなければ「おかしい」ことになります。自己決定権の範囲内でしか責任を問われないのが当然でしょう。つまりより低い年齢の子どもに責任を求めるということは、より低い年齢の子どもたちに自己決定権の機会を与えていくというシステムが前提である必要があるのです。

 

《自己決定能力を育てる》

 「みんなで○○をしましょう」という号令の下、それを素直に一生懸命に行うことで子どもが評価されるという教育スタイルでは自己決定能力は到底育ちません。異質な価値観を相手がもっていることを前提としながら、はっきりと自己主張し、相互貢献の技術を会得し、自己実現のためには他者と共生するルールに沿った行動が必要であることを学ぶ機会がどうしても必要です。
 自己の主張や感情を抑制する癖をつけても、多様な論理の押しつけ合いをしてみても誰も幸福にはなりません。他者は自分とは全く異なる価値観をもつことをまず腑に落とすこと。自分と他人を大切にすること。そしてみなと仲良くできるわけではないがお互いの幸いを侵害しないように生きるルールが重要であることを子どもたちに伝えねばなりません。
 今の子どもたちは大人の自己不全感と不安を投影した「厳重な品質管理の目」に曝されているために、失敗を極端に恐れる傾向があります。子どもの試行錯誤を落ち着いて見守るために必要な安心感を大人自身も十分にはもちにくい状況です。「なんとかなるさ」という安心感を大人が自分自身についても持ち合わせていないのです。親の子どもに対する過剰なコントロールはこのような不安から生じています。しかしこれが子ども自身の安心感の充実や幸福には残念ながらつながりません。
 親にできることは、子どもがいつでも帰ってくることのできる場を確保していることしかありません。それにより子どもは安心して試行錯誤を繰り返し、自己選択とその責任を引き受け、奴隷的でない自分の人生を送ることが可能となるのです。しかし全ての大人が余裕をもてるわけではありません。親任せにした場合「試行錯誤を許す余裕のない親」をもつ子どもはどうするのでしょう。そのような子どもたちの逸脱を一律に「厳罰化」してよいものでしょうか。
 以上のような理由から、コミュニケーションの基礎は国家として義務教育で保証すべきことであると筆者は考えます。今後の「教育改革」の議論が期待できる方向に展開されていくことを信じて、来年もこの連載を続けたいと思います。