第3回 ドメスティックバイオレンス(2)~隠ぺいされる暴力~
ストレス社会を生きる(日本海新聞) | 2001年11月20日
DVがいかに私たちの社会において蔓延しているかということについて前回述べました。
これだけ頻度が高く深刻な問題であるDVが、つい最近まで問題視されることがなかったのはどうしてなのでしょうか。
《DV被害者への共感を妨げるもの》
私たちは家庭というものを安全で安心なもの、他者からは不可侵なもの、何がなんでも守らなければならない最後の砦のようなものと考えてきました。そのため家庭の中で生じるあからさまな暴力ですら「愛情」といった言葉で隠ぺいされてきました。そしてどんなに愛情や尊重からほど遠いことが生じていようと、わずかな例外をひっぱりだして「愛情」を確認し、その家庭を維持することを自分にも他者にも求めてきたのです。
そのため私たちは暴力を奮われている女性をみても「本人が逃げないのだから好きなんでしょ」などと納得していました。夫からの暴力被害のために離婚を考えている女性に対しても、「アルコールのせい」「あなたのここが至らなかったから」「もっと気を遣ってあげれば大丈夫」「家庭を壊すなんてわがまま。子どもがカワイソウ」などという忠告やら説教やらをしてしまっていたのです。
暴力を奮われた被害者自身のショックや恐怖などに私たちがすぐに共感できないのは、私たちが「家庭」というものにもっている自分のイメージを壊されることを無意識に拒否しているからです。そのために家庭において愛情とは無縁の現象が生じている事実に目をそむけてきたのです。
《暴力を受け続ける女性とは》
配偶者や恋人から暴力を受け続ける女性についてはさまざまな誤解があります。夫からの暴力に黙々と耐え続けている女性というと、能力が低く、弱々しく、一見して無力な女性を想像されるかもしれません。しかし事実は全く異なります。筆者が実際にあった女性たちは、その職業などからいっても教師、美容師、医師、弁護士、通訳、会社役員など、能力が低いとはとても思えない人たちが多くいました。そして元々「変わった人」でもなければ、マゾヒスト傾向があるわけでもありません。被害を受ける理由を女性側の個人病理に求めるのは大きな間違いであり、もし彼女らに共通の傾向があるとすれば、それは暴力被害によってもたらされた結果でしかないのです。それではなぜ彼女らは「逃げない」のでしょうか。
《学習された無力感》
決して能力が低くない女性たちが何ゆえに耐え続けるのか。この疑問に対しては「学習性無力感(learned helplessness)」という現象が関わっています。これは次のような実験で示されます。
ラットを手の中に抱き、そこから逃れようともがくラットの逃避行動が完全にやんでから解放するということを何回か繰り返します。その後に水槽にそのラットを入れると30分以内に全てが溺れ死んでしまうのです。その一部は全く泳ごうともせずそのまま水槽の底に沈んでしまうのだそうです。ところが通常のラットでは溺れるまでに60時間以上も泳ぎ続けるのです。これは実験ラットが当初の自発的な逃避行動を完全に力で抑え込まれるという体験により、困難に対する自分の無力を学習してしまったと考えられます。
これと同様のことが被害女性にも生じています。その結果「別れたってやっていける」という当たり前の発想が持てなくなり、目先の男の機嫌ばかりを気にして緊張した生活を強いられることになるのです。これは夫の暴力だけでなく女性に忍耐を求める社会的雰囲気という「手の中」で彼女らが自らの「救いのなさ(helplessness)」を学習してしまったからに他なりません。
この問題に対する私たちの無知は暴力夫と同罪であるといっても過言ではないのです。