第64回 コミュニケーションを考える(7)~学校的価値観の拡散による子どもの窒息~

 自分の<モノの見え方>すなわち世界観を受け入れられ、そこから生じる不安や恐れ、喜びや怒りなどを表現し、他者に伝わってそれなりの反応を得るという体験の積み重ねが人生初期には必要です。それは自分が他者や世界の中で基本的にその存在を承認されているという安心感すなわち自己肯定感の基礎であるからです。そしてそれは同時にコミュニケーションの基礎でもあります。
 前回はそのような基礎は社会として保証すべきものであること、そのために保育というものの位置づけを「コミュニケーションの基礎をつくる」というものに変えていくべきであるという意見を述べました。今回からその続きとして義務教育についても触れたいと思います。

 

《不登校の背景》

 少し前に鳥取県の中学校が不登校の発生率で全国一となったこともあり、山陰では不登校対策がさかんに行われています。山陰に限らず義務教育の現場では学級崩壊と並んで大きな問題として扱われています。これらはどのような背景をもっている問題なのでしょう。
 筆者が教育関係者から招かれた講演でよく聞かれる質問のひとつに「どうして山陰のような自然豊かな土地柄で不登校などという問題がこれほど多く生じるのでしょうか」というものがあります。
 しかし筆者からすれば「都会より地方の小中学生の方がキツイ」のは当然のような気がします。それは都会よりも地方の方が学校的価値観の支配が行き届いていて「隙間」がないからです。隙間というのは学校的価値観以外で子どもを承認する力のある空間です。勉強ができるとかできないとかとは無関係に子どもが自尊心の糧を得られる居場所です。
 戦後の「いい学校(会社)に入れば幸せになれる」という企業戦士生産システムが徹底されるにつれ、学校的価値観が学校以外の場所にも広がりました。地域において、漁師の子が泳ぎが上手く海の知識があること、大工の子が簡単な修繕を手際よくこなし近所の人に喜ばれることなどが「どうでもよいこと」に格下げされ、自尊心の糧になりにくくなりました。「地域」においても、子どもは学校的価値観に縛られるようになったのです。
 「家庭」においても同様でした。子どものそのような世間的な評価が次世代企業戦士養成の担当者である母親自身の評価にもつながるからです。かくして親も子どもを通して達成感や自尊心を得ようと必死になり「隣の子に負けるな」というメッセージを繰り返すことになります。
 そのように学校、地域、家庭という空間で隙間なく同じ価値観で整えられてしまった結果、子どもにとって承認の供給源の多様性が失われてしまいました。そのためなんらかの行き詰まりや困難に直面した際にどこにも居場所がなくなってしまい、日中の“監視”の目を避けて昼夜逆転しながら自室に引きこもらざるを得なくなってしまうケースが増えたのです。

 

《承認の供給源の多様さ確保を》

 学校という一つの空間における評価システムに過ぎないものが、高度成長時代の必要性からあまりにも学校外にまで拡散してしまい、それが今も子どもを追いつめています。学校、地域、家庭が一体となった育児というものが叫ばれていますが、それが学校的価値観による支配強化では意味がありません。多様な自尊心の持ち方を許容する育児システムの構築が望まれます。