第62回 コミュニケーションを考える(5)~世界観の承認が不可欠~

 前回は不安定な「意味」に自尊心の基盤をおくことの危うさを述べました。現代のような変化の激しい時代に、人の一生を保証するような、まして子や孫の代までを保証するような絶対的な「価値観」などは存在しません。
 このような状況は自己不確実感に苛まれ余裕を失った人々を大量に生み出します。そして自己の脆弱な自尊心を保護するために他者に対して一方的な価値観を押しつけるという「暴力」が多くなります。いじめもDVも児童虐待もこのような状況が背景となっています。女性や子どもなどが「暴力」被害に遭いやすい状況にあるのです。

 

《強迫観念の伝達》

 不安に駆られた大人の「強迫観念」により、子どもたちはあまりにも早い時期から実感の伴わない「意味」や「責任」を押しつけられてしまいます。そのような圧力への適応は「うるさい親」を自分の中に取り込んで、常設してしまう(内面化する)ことでなされます。ネグレクト(無視、放置)されていた子どもにしても「おまえの存在には関心がない」という親の態度を内面化します。
 そのようにして「これではいけない」「おまえはいつも間違っている」「あれもこれもしなければならない」「お前は甘えている」「頑張りが足りない」「やさしさが足りない」「勝手に主張してはならない」等の言葉が子どもの心に繰り返し蘇るようになります。それはその子を末長く支配し続けます。そして承認や安心を求めて、親と同様の強迫観念に苛まれて生活するのです。
 その強迫観念を満たすべく「躁状態」を維持して休むことなく働き続けたり、生きている実感を維持するためにアルコールや薬物、ギャンブル、買い物、過食・拒食、過剰なエクササイズなどに走ります。また自分が好きになれず、自己懲罰的な自傷やセックス、万引などが頻繁となります。

 

《コミュニケーションの基礎づくりとしての教育改革》

 自己肯定感は人とのコミュニケーションの中で常に養われていくものです。しかしそのコミュニケーションを円滑に行うためには一定レベルの自己肯定感は不可欠であり、それは幼少時代の承認に依っています。過干渉にしてもネグレクトにしてもそれを難しくするのです。
 人から承認してもらうための達成をあまりにも早くから求めすぎることで、人とのコミュニケーションによる満足を喪失してしまう様は、学業的達成を早くから義務づけることで、学問に対する興味自体を奪ってしまう現在の教育と似ています。
 自分が見つけ出す答えにバツがつくのではないかという不安で勉強している子が将来学問で楽しむことは難しいでしょう。自分の主張や表現が相手から非難されるのではないかという不安がまず先立つ子が、人とのつき合いを楽しむことができないのと同様です。
 学問にしてもコミュニケーションにしても、まずその子の世界観の承認があって始めてモノになるのです。そのためにはやはり義務教育と子育てシステムを改革していくことは必要不可欠でありましょう。