第61回 コミュニケーションを考える(4)~「意味」に依存する危険~
“止まり木”求め さまよう心(山陰中央新報) | 2001年11月3日
食うに困らない時代となり、多様な価値観が可能となりました。多くの人々が依って立つことのできる自明な「行動基準」というものは既に存在しません。
そのような状況の中で、一方的なコミュニケーションが横行するようになっています。いろいろな世代的な価値観や個人的な好みを問答無用の「正論」のように主張し、他者に押しつけていく姿勢というのは、政治家・官僚だろうが暴力夫だろうが、普通の母親だろうが広範にみられます。今回は一方的な主張をする人々の背景と生きづらさを確認しておきたいと思います。
《「意味」に依存すること》
他者に対してこのような押しつけ的な主張を臆面もなくできるのは、その人自身もある種の「意味」にがんじがらめに縛られているからです。
例えば、20年前の社会的脈絡ならばそれなりに説得力のあった「いい学校、いい会社、いい人生」という考え方をいまだに堅持している人々が多くいらっしゃいます。しかしこれだけ流動的な社会にあって「学歴」があれば何とかやっていけるなどという考え方に固執することの危うさも意識すべきです。自尊心の拠り所をポストだの権力だのという不安定な「意味」に置くことは、自分の最も大切なものを泥舟にのせるようなものです。
《「報われない人々」の続出》
「意味」のためにヒア・アンド・ナウ(今ここ)の充実を諦め、幸福を先延ばしにしてきた人たちの中から当然「報われない人々」が続出します。かくして大量の承認不足者が承認を求めてあがく中でさまざまな問題が生じています。いまや大きな社会問題と認識されつつある「引きこもり」なども端的にこの種の問題です。過食や拒食、アルコールや薬物などの嗜癖や自傷行為などは、無意味な「意味」にがんじがらめとなってしまい、生きるために必要な「気持ちの張り」を維持できなくなった人々の苦肉の策なのです。
また近年増加している酒鬼薔薇的少年すなわち「透明な存在」というのは、周りが全て意味にしばられている中で、自分が社会の中に存在しているという感覚がなくなってしまった子どもたちです。彼らは社会の中で承認を諦めるのと同時に社会を恨む怨霊のような存在となります。それはいわゆるアウトローというものとは質が違います。アウトローは社会と敵対しているわけではなく自分の選択したやり方で社会と関わっている存在です。しかし怨霊は違います。酒鬼薔薇聖斗がバイオモドキ神という勝手な神を創造していたのは象徴的ですが、社会的存在とはいえません。まさに怨霊のような振舞いになります。
《「意味」を相対化した後に》
動物が意味があるから生きているわけではないように、人類も意味のために生きてきたのではありません。「生きることに意味があるのか」などとやたら考え出したのは人類史上でいえばつい最近のことでしょう。
人間にとって大切なことは意味ではありません。意味などなくても幸福に生きられます。別の言い方をすれば幸福に生きていないからこそ意味を求めそれにすがろうとするのです。
全ての「意味」を相対化しつつ、人とのコミュニケーションに生きる喜びを見いだせるための工夫が是非とも必要になってきています。