第59回 コミュニケーションを考える(2)~ハイテク時代の基盤は共生のルール~
“止まり木”求め さまよう心(山陰中央新報) | 2001年10月20日
前回、米国中枢同時テロを例にして触れたように、一方的な外交や差別的な態度などは、ハイテク時代の存続とは両立し得ないものです。共生のルールに反するようなコミュニケーションは、滅びへの道であることは間違いありません。個人の力と影響力を増大させるハイテク社会は、「(いくら可能であっても)人間はそんなことはしないだろう」という人々の安心感や信頼を前提にしか存続できないものなのです。
ハイジャックした大型旅客機で、大勢の乗客を道連れに高層ビルに突っ込むという行為は、これまでは実行されなかったことです。今回の米国でのテロはその基本的な安心感や信頼を大きく揺さぶりました。これはハイテク時代を生きる私たちにとっては大きなトラウマです。これまでなら「そんなことを人間はしないだろう」と思えたことが、次々と現実的な恐怖となって現れてくることでしょう。
《まず個人レベルから》
私たちがこのハイテク時代を「生き残る」ためには、まっとうなコミュニケーションを個人レベルから行っていくしかありません。国家の姿勢というのは、その国民自身をよく表しています。まず私たち自身の身近なコミュニケーションを「まっとう」なものにしていくことこそ重要です。
私たちの周囲には、一方的なコミュニケーションが横行しています。暴言や暴力、無視や策略によって相手を追い詰め、その存在をおとしめたり否定することで相手をコントロールしようとする行為は、実に広範に見られます。いじめ、ドメスティックバイオレンス(DV)、児童虐待、家庭内暴力など…。私たちにとって身近な問題の数々は、まさにこの種の問題なのです。そしてアルコール・薬物をはじめとするさまざまな嗜癖(しへき)問題は、このような人間関係を背景に生じてきます。私たちはこれらに真剣に向き合う決心をしなければなりません。
《共生のルール》
「いじめはいけない」「差別はいけない」「戦争はいけない」などというお題目をいくら叫んでみたとしても、解決はありえません。情緒や気分に訴えても限界があります。考えるべきはそれらを起こさせないシステムです。そして、その一環として欠かせないのが共生のルールを身につける教育です。それがコミュニケーション教育や人権教育なのです。
他者や自分の存在を尊重する態度が可能となるには、他者から自分という存在が受け入れられ、普通に大切にされるという体験の積み重ねが必要となります。人を大切にするコミュニケーションの輪がどんどん拡大することで良循環になることも考えられるのです。しかし、逆に自己の存在を否定される体験が他者を否定する行為に結びつき、それが拡大していくという悪循環も想定できます。
虐待にしてもDVにしても、そのような悪循環を断ち、良い方向にもっていくシステムを次々に工夫していくことが必要です。学校教育においても共生のルールを身につけることを主眼にした、さまざまな改革を実行していく必要があるのです。
次回はその共生のためのシステムやルールについてもう少し考えてみたいと思います。