第1回 解決の第一歩は直視~犯罪は社会の鏡~

 相変わらず「事件」や「問題」が多発しています。テロ、保険金殺人、凶悪な少年事件などの犯罪や事件の数々がメディアに登場しない日はありません。私たちの日々の生活においても、児童虐待、ドメスティックバイオレンス、家庭内暴力、ひきこもり、いじめや差別といった人間関係の問題や、アルコール・薬物、借金、ギャンブル、拒食や過食などのさまざまな嗜癖問題への対処は非常に身近なことになっています。しかしこれらの事件や問題をどのように捉え、どのように対処すべきかという説得力ある説明はほとんどみられません。

 

《メディアで繰り返される無意味な「儀式」》

 そのような事件発生直後の私たちには、得体の知れない不安と不快感が生じています。それらを解消するために必要とされるのが「分析」です。
 しかし最近の凶悪少年事件に従来型の動機を求めてもさっぱり分かりません。「殺したいから殺した」などという動機は、警察も困るでしょうが私たちも落ち着きません。マスコミの方も「ごく一般的な家庭で育った普通の子が近所の主婦を殺しました」などという正直な報道はとても出来ませんので、必然的に強引な理由づけに終始します。犯人の少年は朝食をとっただけで「平然と残さず食べた」などと報道され、受手側は「やっぱり変な奴だ(自分とは無縁の異常な人間だ)」と納得し落ち着きを取り戻します。メディア精神科医などはこのような報道の必需品となった観があり、「人格障害」「行為障害(子どもの場合)」などと毎度丁寧に「診断」し、その異常性にお墨付を与える役割を担っています。
 ちなみに「人格障害」というのは、例えば「躁うつ病」などの確立された疾病概念と同列に扱える病名ではありません。「精神病ではないが困ったことをする人たちを一応こう呼びましょう」という単なる精神科医たちの合意に過ぎません。当然治療法も定まっていません。そのような診断名を持ち出して事件を説明することは「困ったことをする人だから困ったことをした」という循環論法でしかなく、全く対策に結びつかない無意味なものといえます。
 このように事件の主役に「異常」のレッテルを貼って、自分と無関係のものとすることで安心するというのは一種の防衛機制(自己を守る無意識の心の動き)です。しかしそれは同時に問題の本質を見失わせ、解決を不可能にしてしまうのです。

 

《真の安らぎに向けて》

 「犯罪は社会の鏡」という言葉があります。当事者たちは特殊どころか私たち以上に私たちを映し出している鏡といえるでしょう。彼らの行為は、同じ社会を生きる私たちの生きづらさと同じものをベースにしています。それをごまかしきれなくなっているのが彼らなのです。私たちはいったい何を抱えているのか。解決への第一歩はそれを直視することにあります。その上で行うまともな議論こそが、真の安らぎに向かう近道でありましょう。