第46回 父性なき社会(2)

 前回、父性とは連帯と規範を枠組みする「権威」であることを述べました。共同体における人々の連帯とその共同体を維持するための規範は連鎖して動きます。
 戦後の日本に降りかかった「父性の喪失」の根源のひとつは、敗戦という事実と天皇の人間宣言などによってもたらされました。
 これは当時を生きる人々にとってはまさに行動の中心原理の喪失を意味します。

 

《「共同体」となった企業》

 このような激烈な急性アノミー(無規範)の中で、戦後、人々は新たな共同体を模索します。そのような特殊な状況の中で機能集団である「企業」が「共同体」としての役割を兼ねるようになっていきました。
 それゆえに日本企業には他の資本主義国には見られないような共同体的特徴が濃厚になっていきました。
 例えば、共同体の内部規範を重視優先し、外部規範を軽視する傾向が顕著です。そして組織単位に割り振られた社会財は共産主義国も及ばないほどに平等に配分されます。
 社長と新入社員との給与格差がせいぜい数十倍というのは驚くべきことです。当然転職も困難です。また企業が株主(資本家)の持ち物であるという感覚も薄く、かといって経営者のものでも、労働者のものでもないような不思議な資本主義です。
 利潤が目的ではなく、あたかも生産などの活動自体が目的化したような行動様式。これは「公僕」という自明の役割を見失い、規制管理するという手段自体が自己目的化しているお役所にも当てはまります。
 このような雰囲気の中で、男性は「企業戦士」、女性はその夫を支え、優秀な次世代を育成することを期待されました。
 高度成長時代がおとずれ、人口は都市へと流出。日本の底辺の連帯を支えていた地域共同体は徐々に、しかし確実に崩壊の道を歩みました。

 

《共同体としての企業の崩壊》

 企業は「共同体的なもの」を提供し、アノミーの苦痛を軽減しましたが、資本主義的な常識が通用しないため、淘汰(とうた)は行われず、責任も不明確で、危機管理能力などは育ちませんでした。高度成長時代の終焉(しゅうえん)とともにこれらの問題点が一気に表面化します。
 企業がこぞって「グローバルスタンダード」などと言い出したとき、中高年の自殺が急増しました。
 地域共同体の連帯は確実に破たんしてきている以上、企業の共同体としての色彩が失われることは多くの人にとって死活問題でしょう。それは単なる失業問題ではないのです。
 それでは、他のつながりはどのようになっているのでしょう。家族や友人などとのつながりはどのようになったのでしょう。
 日本人の多くが、豊かなアメリカのドラマに出てくるような「明るい理想家族」を目指し、家庭の中でも権威(とそれに伴う責任)を排除し、もの分かりが良くなりました。学校でも民主主義教育が行われました。
 そんな中で不登校、家庭内暴力、親殺し子殺しなどの問題が徐々に、しかし確実に増えてきたのです。