第43回 大阪の児童殺傷事件(3)
“止まり木”求め さまよう心(山陰中央新報) | 2001年6月30日
このような残虐な事件がいかにして可能となったのか。その無規範が発生したメカニズムとさまざまなレベルでの父性の機能不全を考えていきたいと思います。
《薬物混入事件と検察の姿勢》
犯人の宅間容疑者は今回の事件までにさまざまな事件を引き起こしていました。しかし、きちんと処分されたのは1985年の婦女暴行のみ(3年服役)で、以後の事件はほとんど処分保留や不起訴となっています。
大きなものとしては1999年に小学校の技能員時代におこした薬物混入事件があります。これは勤務先の教職員に精神安定剤入りのお茶を飲ませた傷害事件でした。当初の警察の調べに対し、「軽い気持ちだった」と容疑を認めて反省していたというのに、送検後は「意味不明の」供述をし始めました。複数の医師が精神病であることには疑問があるとの判断を下していたのにもかかわらず、最終的には刑事責任能力は問えない」とされ不起訴となり精神病院に措置入院となりました。
日本の刑法は「責任主義」を採用しており、犯罪行為に故意、過失のいずれも認められないか、責任年齢に達していないか、心神喪失が認められる場合などには「責任を負わせられない」として不可罰としています。
刑法39条には「心神喪失者の行為は罰しない」「心神耗弱者の行為は刑を減刑する」とあります。心神喪失や心神耗弱とは、精神の障害のために行為の善悪を判断する力が低下した状態です。
薬物混入事件当時の宅間容疑者はこの心神喪失に該当するとされたのです。措置入院からわずか39日間で退院した宅間容疑者は、以後事件を起こすたびにこの時の診断書やこの診断書を元に取得した精神障害者手帳を検察に提示して「不起訴のおねだり」をするようになるのです。
また、それが有効であったのは精神障害の疑いなどで少しでも敗訴の可能性があると裁判所の判断を仰がず不起訴にしてしまいやすい検察側の姿勢があります(敗訴を検事のキャリアの汚点とみなす傾向があるそうです)。
日本は起訴された者の有罪率が飛び抜けて高く、逆に不起訴が多いのです。しかしこれでは検事は原告の代理人ではなく、裁判官の代理人となってしまいます。
《心神喪失・心神耗弱の適用に議論を》
日本は迷惑きわまりない大人の「赤ん坊返り」に対しては非常に寛容な社会です。例えば酔っ払いの振る舞いや夫が妻に奮う暴力なども重大視しない傾向があります。その延長でしょうか。シンナーだとか覚醒剤だとかの乱用者が「急性中毒の範囲をこえた精神病の状態であった」などの判断で「心神耗弱」になるケースが非常に多いのです。
大阪府堺市で19歳の男に幼稚園児ら3人が殺傷された「境通り魔事件」などでも「心神耗弱」を認められ減刑されています。ひどいケースでは覚醒剤乱用者が妻を殺傷する事件を起こして、そのたびに減刑や不起訴となり、結局3人もの妻が殺されてしまっているような例すらあります。
このようなケースは心神喪失や心神耗弱の現在の適応の仕方や検察の姿勢では新たな被害者を生んでしまいやすいことを示しています。
大切なことは、シンナーや覚醒剤などの薬物などの乱用は当然として、シラフの「赤ん坊返り」すなわち反社会的言動を繰り返す者に対して、原則として本人の責任を減じてはならないということではないでしょうか。彼らのほとんどが生育歴上に同情すべき不幸を抱え、自己肯定感を保ちにくい状態でしょう。しかしこのような形の「赤ん坊返り」に対して本人の責任を減じてしまうことには大きな問題があります。
彼らに必要なのは自分を尊重できるようになることです。そのためには他者から尊重される必要があります。「うっとうしいと思われながら許してもらう」ような体験は、結局さらに自分を肯定する力を奪い、次の「赤ん坊返り」につながってしまうのです。
社会が納得する罪の償い方の検討と償った後の差別の排除こそが重要なのではないでしょうか。
現在までに報道された範囲で考える限り、宅間容疑者は精神病でも覚醒剤乱用者でもありません。彼はシラフで「赤ん坊返り」をしてきただけです。
彼が抱えていたのはそのままの自分では人に愛されない相手にされないという感覚でしょう。それを振り払うために反社会的行動という「赤ん坊返り」で他者を振り回してきたのです。これに対していろいろな「診断」をつけて責任を免除してきた結果、法治国家による父性原理が彼には機能しなかったのです。