第22回 米子乳児虐待死亡事件(3)

 前回は殺害されたCちゃんの両親、すなわち本事件の両被告の成育歴について触れました。母親のB子は実父や継母からあからさまな虐待を受けることで、自分の存在を受容することが難しくなっていました。父親のA夫の方はいわゆる常識的な両親から“条件付きの承認”を濃密に受け、自分は大したものだと思っている一方で、挫折に対し極端に脆弱(ぜいじゃく)な自尊心を抱えていました。いずれも自分の存在を丸ごと肯定しにくいがゆえに、子どもに対して力を乱用してしまいやすい大人であったと考えられます。
 今回は前稿の補足として、自己肯定感と育児に関して思うところを述べてみたいと思います。

 

《なぜ子どもはかわいいのか》

 親が子どもを愛することができるのは、親自身の自己愛を子どもに投影しているからです。つまり「自分がかわいい」から子どもをかわいいと思えるのです。これは子育てについて考える場合の基本中の基本です。子育てとは自分育てであり、育てるとはひっぱたくことではなく存在を受け入れて世話をしていくことです。
 ここに子育てに悩むお母さんがいるとしましょう。いわゆる専門家のアドバイスは「どのように子どもを扱うべきか」という点を強調しがちです。聞いたときには役に立ったように思うわけですが、電化製品の取扱説明書じゃあるまいし、いちいち「正しい取り扱い」に拘泥していたら切りがありません。育児書を山と買ってみたところで不安が解消されるわけではありません。ますます不安が募ることさえあります。
 子どもの言動や自分の子育てについて「これでいいのだろうか」という不安が絶えないという人は、「自分をそのまま受容すること」ができにくいのです。たとえば「子どもをかわいいと思えない」とか「長時間一緒にいると殴りたくなる」という気持ちを抱えて悩んでいる人がいるとしましょう。この人に必要なのは、このような自分を責めることではありません。まして説教でもありません。「そういうことってあるよね」という周囲の共感こそが不可欠なのです。
 人間にわいてくる感情や気持ちに、いいも悪いもありません。おならのようなものです。出し方の問題はあってもわいてくること自体に問題はないのです。長時間いると殴りたくなるのならば、今のような形で長時間一緒にいてはいけないだけのことです。保育園などに預け、その間に自分の世話をし、自分に余裕を与えるようにするといいでしょう。そのような工夫により、一緒にいる夜の時間が穏やかに流れ、子どもがとてもかわいい存在に思えてくるかもしれません。

 

《“良い親”の強制と虐待》

 ところが、このような育児にまつわるまっとうな工夫や努力の邪魔をするような育児論がちまたにはあふれています。「小さいうちは母親がぴったりと寄り添って“いなければならない”」という迷信に脅迫されて、余裕のない状態で子どもと密着している被害者はなんと多いことでしょう。「母乳で育てましょう」という栄養学的正論を、あたかも育児に不可欠な母の愛の象徴のように訴える暴論も、多くの被害者を出しています。母親の体調や周囲の協力状況によっては、母親以外が与えることの難しい母乳は母親の過重な負担となり、わが子をかわいいと思う気持ちと余裕を奪ってしまうかもしれないのです。
 「ああするべきだ、こうするべきだ」と脅迫するのみで、核家族で子どもを抱える親の気持ちに少しも配慮しない一方的な態度は、周囲の親に対する一種の暴力といえます。子どもの在り方を一方的に押しつけ、思い通りにならないと暴力や無視をするというのが児童虐待ですが、“良い親”を押しつける周囲の態度がこれを助長させてしまっている面もあるのです。われわれはもっと真剣に考えねばなりません。「子どものために」と称して周囲が両親(特に母親)に対して行う強制と、親が「お前のために」と称して子どもに振るう暴力とは構造上まったく同じなのです。