第21回 米子乳児虐待死亡事件(2)

 これまで述べてきたように、虐待とは、余裕を失っている親が本来は“自然現象”のように受け入れるべき子どもに対して一方的に在り方を決め、大人の力を乱用してしまうことです。虐待においてまず考えるべきことは、子どもを取り巻く周囲の“ゆとり度”といえるでしょう。現在のように核家族化が進み、さらに地域として子どもを抱えるシステムが崩壊している状況では、両親の余裕を計ることがとりわけ重要となります。今回は米子の乳児虐待死亡事件を引き起こした両親について、その成育歴の視点から考えてみたいと思います。

 

《虐待の世代間連鎖》

 虐待されて育った人が次の世代を虐待するようになるという意味で「虐待の世代間連鎖」という言葉をときどき耳にします。これは真実なのでしょうか。
 子どもは、自分がどのような存在であるかという知識を持って生まれてくるわけではありません。周囲とのコミュニケーションの中で、世界における自分の位置、どのような存在であるのか、という自己評価を形成していくのです。虐待されて育つということは、すなわち余裕の乏しい周囲によって養育されるということです。余裕のない周囲が自分の振る舞いにいらだったり、無視をしたりする姿を日常的に見ている子どもは、「自分の存在が世界に受け入れられている」とは思えません。逆に「自分は周囲にとって基本的に迷惑な存在である」という認知を形成します。これは自尊心、自己愛といったものに直結します。人は自分の自己愛を子どもに投影しており、自分を受け入れ愛しているからこそ、子どもの存在を受容し愛することができます。自分の存在が基本的に周囲に喜ばれていない、受け入れられていないと感じている人が、自分の子どもをそのまま受容できるわけはありません。イメージ通りにコントロールするために力を乱用(アビューズ)してしまうでしょう。
 しかし、不幸にしてそのような生育歴を持つ人であっても、その後の人生の中で周囲から承認を受け、大切にされる、されている自分を発見していくとき、子どもの存在をそのまま受容しやすくなり、アビューズせずにすむようになっていきます。実際、ひどい虐待を受けながら育った方の中にもそのような人はたくさんおられます。しかし、大人になってから再び基本的な自尊心を回復していく作業は、決して楽な道のりではありません。
 それでは、この事件の両親とはどのような成育歴をもった大人であったのでしょうか。

 

《低い自尊心》

 母親のB子の方は、小学5年時に両親が離婚。その後、実父と継母から虐待を受け、再び実母の方に引き取られるという経験をしています。かなりあからさまに余裕の乏しい環境で成育した彼女の特徴は、対人関係の中で「自分のようなものがここにいてよろしいのでしょうか」といった感覚を持ってしまうことでしょう。このような不十分な自己愛は、ミルクを飲まないとか夜泣きをするという“迷惑な”子どもに対して力を振るってしまう危険因子となります。

 

《“水増し”された自尊心》

 一方、父親のA夫(21)は、いわゆるしっかりとした両親の長男として成育し、特に母親からは密度の濃い注目を浴びて育ちました。しかし彼は「自分は好きなことを一度も親にさせてもらったことがない(いつも親の意図通りのことをさせられてきた)」という感覚を持ち、強い反発を持っていたようです。その一方で親に認められることを望み、見捨てられるのではないかという不安を抱えてたと考えられます。
 「いい子だから認められる」「失敗しないからかわいがられる」という枠組みで“条件付きの承認”ばかりを密に受けていると、自尊心がかなり“水増し”されてしまいます。なぜならこの場合、自分を抑えてその枠組みでのみ頑張れば容易に自尊心のかさ上げができてしまうからです。しかし、そのような形で肥大した自尊心は、非常にデリケートな傷つきやすいものとなります。
 本来、自尊心とは目先の失敗などで容易に揺らぐものではありません。失敗して落ち込んだとしても、別に自分が“ごみ”のようになったとは感じないものです。ところが“条件付きの承認”ばかり受けてきた人の場合は、一つの枠組みでの挫折がしばしば致命的な意味を持ちます。このような“いい子”が挫折した際の親に対する依存性暴力の噴出こそ、今や社会問題とまでいわれる「家庭内暴力」なのです。わが子にこれが向かった場合は深刻な虐待に結び付きます。泣きやまない“悪い子”に対し、容赦のない暴力となってしまう危険性が大きいのです。
 このように、あからさまな否定や無視(ネグレクト)を受けて成育したB子のみでなく、一見恵まれて育ったようにみえるA夫もまた、自尊心に大きな脆弱性を抱えていた可能性も考えられ、これは今回の事件で考えるべき大きな要因の一つでありましょう。