第19回 不透明な時代への対応
“止まり木”求め さまよう心(山陰中央新報) | 2001年1月13日
今回は「児童虐待」事件を扱う予定でしたが、年初ですので、筆者がこの連載で皆さんに提供しようと考えていることについてまず述べさせていただこうと思います。
相変わらず「事件」が多発しています。これまでの常識的な枠組みではとらえられない「事件」は、その不透明さゆえにわれわれに大きな不安をもたらします。筆者もまたそのような“不透明さ”に人一倍不安を感じている一人です。自分の置かれた世界が不透明なとき、その不安を原動力に人は分析を試みます。われわれは自分に都合の良い“ものの見方”とそれに基づく行動によって、自分を不安から解放しているのです。“ものの見方”は、その人の体験の範囲で都合の良いようになされますから、基本的には「正しい」も「誤り」もありません。
《有効性の高い”ものの見方”とは》
しかしその“ものの見方”がどれだけ一般化できるか、どれだけその問題に有効性を発揮する枠組みであるかということについては、明確な優劣があります。例えば理解し難い動機の少年事件の多発に対して、多くの人が不安を持ちます。そしてある人が酒席や家族の中で「こんな連中は死刑だ」と言い放って自分を不安から解放したとしても、それは罪のない話です。しかし、国家レベルでそのような枠組みを「採用」するとなると話は別です。「少年を厳罰に処せば少年事件を抑制できる」という枠組みはあまりにも近視眼的で問題の全体像を包含する視点ではありません。有効性は当然限られたものであり、優れた枠組みとはとてもいえないのです。大切なのは、説得力ある「事件の解釈」とそれに対応した少年の処遇、そして社会的処方せんであることはいうまでもありませんが、現在はそれがあまりにも欠けています。それゆえに被害者の怒りや無力感が、そして人々が共有する大きな不安が、「厳罰化」以外に逃げ場を見いだせずにいるのです。
この連載の目的は、事件などに象徴される不透明で不安な現在の状況に対して、透明化の枠組みを提供することです。すっきりとした見通しの良い枠組みさえ共有されれば、必然的に解決への万策が導き出されるでしょう。今後もできる限り皆さんの役に立つ「たたき台」を提供していきたいと考えております。ぜひ皆さんのご意見をお聞かせください。
次回は、昨年米子市で両親によって引き起こされた乳児虐待死亡事件について考えてみたいと思います。