第17回 児童虐待(1)

 このところ、連日のように虐待死亡事件が報道されています。山陰でも今年に入り、米子で生後4カ月の乳児が両親からの暴力により死亡したのをはじめ、国府町でも虐待死亡事件が発生しています。しかし虐待事件が連日のように報道されても、その本質を知ることはできません。虐待とはいかにとらえるべき問題なのでしょうか。
 われわれが日常的に接している虐待に関する情報は、非常にセンセーショナルなものです。最近は変化の兆しが見え始めましたが、「鬼母、幼児をせっかん死」的な伝えられ方がまだまだ多いように思われます。もっとも5年以上前には、「専門家研修」と銘打った会などでも法医学の先生が出てきて小児の無残な検視写真をやたら見せるというプログラムが定番でしたので、仕方ないことかもしれません。
 筆者は皆さんに、虐待の「専門家」になっていただきたいと考えています。しかし、よりセンセーショナルな伝え方をして「事実はより深刻ですよ」などと語るつもりは毛頭ありません。このような伝え方は虐待の本質を見失わせてしまうのです。尋常ではない暴力にのみ焦点を当ててしまうと、伝えられたほとんどの人が自分とその事件を結び付けて考えることができなくなります。これが虐待を理解する際の最初のつまずきとなるのです。

 

《「虐待する人、しない人」という誤り》

 「虐待をする人」とは「とても異常な人」である、と漠然と考えておられる方は多いことでしょう。殺人犯と無実の人がいるように、世の中に「虐待する人」と「しない人」がいるというわけです。ところがこれは大きな間違いなのです。実際には、すべての親や大人は子どもを虐待しています。そこにあるのは本質の違いではなく程度の差でしかありません。さらに同じ人物でも、昨年と今年、昨日と今日、午前と午後などで虐待指数が上昇したり下がったりするのです。要するに、すべての大人は例外なく子どもを虐待していて、その度合いが状況によって刻々と変化しているのだと考えてください。

 

《虐待のとらえ方》

 虐待にあたる英語はchild abuse & neglectです。アビューズ(abuse)とは乱用という意味です。つまり、大人という強者がその力を弱者である子どもに乱用してしまうことをいいます。アビューズという現象が生じやすいのは、大人側の余裕が失われているときです。子どもの言動は一種の自然現象とでもいうべきものであり、遠慮がありません。好きなときに泣き、大小便をたれます。このような”こども”という現象を、余裕のない大人は自然現象として受け入れることが困難となり、子どもに対し”責任”を求めます。「なぜミルクを飲まないんだ」「なぜ泣きやまないんだ」などといって乳児を殴るということは、このようにして生じるのです。
 力のある者が一方的に弱者の在り方を押しつけ、それに反すると暴力をふるうという現象は、社会のさまざまなレベルで生じていることです。そしてそれは、強者から弱者へと連鎖しており、”男から女へ”など経由して最終的に最も力の弱い”子ども”に被害が及んでいるのです。

 

《虐待は親のSOS》

 子どもを虐待しやすい人とは、ひと言で言えば切羽詰まっている人です。われわれはだれでも嫁姑関係や夫婦関係で悩んだり、病を得たりする時期があり、365日24時間余裕を持って過ごせるわけではありません。運悪くいろいろ重なってしまうこともあるでしょう。そのようなとき、私たちはまず確実に子どもをアビューズしています。常に要求してくる子どもに対し”自然現象”としてとらえる余裕を失い、その要求を自分に対する暴力のように感じてしまう。そのようなとき、われわれは子どもに対し自らの力を乱用します。親に訴えるしか生きるすべのない子どもに対して暴力的に制止したり、その要求を無視し養育義務を放棄(ネグレクト)してしまうのです。
 このように見ていくと、被害を受ける子どもの悲鳴は、切羽詰まっている親のSOSととらえることも可能です。虐待に対する有効な援助とは、このような切羽詰まっている人々の肩の荷を下ろす手助けであり、虐待の予防とは、われわれの生き方におけるゆとりを増やしていくことにほかなりません。すなわち、虐待問題の根本は社会に生きるわれわれ一人ひとりのメンタルヘルスと深くかかわっているのです。