佐賀バスジャック事件(12)まとめ
未分類 | 2018年8月26日
佐賀バスジャック事件に関連して11回にわたり家庭内暴力や生き方の問題について述べてきました。今回は事件を通して考えてきた、親と子どもの現状と好ましい方向性などについてまとめてみたいと思います。
《家庭内暴力の本質は「依存」》
家庭内暴力の本質はその「依存性」です。家庭内暴力児が親に殺されたという話はやたら多いですが、親を殺したという話はまず聞きません。親を殺す子どもというのは次回以降に詳述しますが、質がかなり違います。なぜ家庭内暴力児が親を殺さないかというと、彼らは親に愛着していて、甘えたいのがまず第一なので、殺してしまったら元も子もないからです。彼らの暴力は「こんな自分にだれがした」「責任とって何とかしてくれよ」という文脈で起こっているのです。そのような気分になるきっかけとなるのは、人との関係をうまく結べない、思ったような評価が得られないといった経験です。例えば成績が思うようにあがらない、友だちにばかにされるようになったなどです。もう少し年齢が上がると、ガールフレンドとの初体験に失敗した、入社した有名企業で思うような仕事がさせてもらえないといったようなことがきっかけになります。
《自尊心の無意味な肥大とパワー幻想》
親により「勉強さえできたら幸せになれる」「頑張ってさえいれば必ず報われる」などと無責任に一定の生き方を押しつけられ、どのように勉強し、どのような友だちとどのように遊ぶかまで親が選んでくれるような環境で「素直ないい子」をやっていると、いつも注目されてほめられているという等身大とは程遠い誇大な自己イメージをもつことになります。しかし彼らの自尊心は実際の試行錯誤に基づいて得られたものではなく、親の勝手な思いこみの中で下駄を履かされている状態ですので、多様な価値観が存在する現在の社会の現実場面では非常に脆弱です。そのためにささいなことで傷つき、他者を批判しながら引きこもることになります。
彼らの親は、自分たちが経験した高度成長時代に日本中を席巻していた「高学歴=いい人生」という「物語」にまだすがっているのかもしれません。しかしいまやそのような物語は一部の人のものでしかないのです。「パワー」を信仰している親たちは、コミュニケーションする力よりも他者をコントロールする強さを子どもに求めます。「酒鬼薔薇」にしても、今回のバスジャック少年にしても調べていくとそのような家庭の雰囲気があるようです。親が「強ければ何とかなる」という単純なパワー幻想で子どもを育てるとき、子どもは他者との共感をベースに付き合うのではなく、優越感をベースに付き合うようになります。そのような“勘違い”をしている人間は、いくら本人が焦って「偉い自分」を演出しようとしても、異性にはもてないし、友だちからも尊敬されないという現実に直面します。そのような存在感の薄い自分を突きつけられ、自分では一歩も踏み出せない状態となったとき「こんな自分にだれがした」となり、親への暴力が始まるわけです。
《いい親とは》
このようにみると家庭内暴力が起こる可能性のない家庭の方が、現在では少数派なのかもしれません。現在の少年たちの親世代は、高度成長期のパワー幻想の中で成長した世代であるからです。親たちの多くは子どもの失敗を怒ったり、失敗しそうなことを未然に回避させることに血道を上げています。しかし親の役割として大切なのは、むしろ子どもが安心して失敗のリスクがとれるような情緒的安定の場の提供ではないでしょうか。どんなに失敗しても帰ってこられる場を用意されている子どもは、試行錯誤の機会をたくさんもてるのです。そのような経験を通して、子どもはしなやかで強い自尊心を育てることが可能となるのです。
《本当の謝罪の可能性》
先日、バスジャック少年の両親の手記が雑誌に出ましたが、彼らは「いい親」です。しかし「いい親」という慇懃(いんぎん)なパワーを使って今の逆境を何とかしようという雰囲気が感じられる文章でした。謝罪の言葉がちりばめられてはいますが、被害者の心に響くものであるとは思えません。彼らもまた、パワー幻想を捨て、素の自分を受け入れて愛すという必要のある人たちです。他者をコントロールしようとするのではなく、共感とコミュニケーションをベースにした生き直しをしない限り、一生不幸でしょうし、被害者の心に響く謝罪はできないでしょう。
少年本人にももちろんいえることですが、たとえ殺人を犯していようと、加害者が被害者に真の意味で謝罪が可能となるのは、加害者に自己受容と自己尊重が生じた場合なのです。自分を受け入れず尊重もしていない人間が他者の痛みに真に共感することは不可能です。少年に今後必要なのは、自分が本当の意味で認められ、受け入れられる体験です。それを通し、本当に自分を受け入れ尊重できるようになったときにこそ、初めて真の謝罪が可能となるのです。
山陰中央新報連載(平成12年11月18日付)より