第3回 佐賀バスジャック事件(2)

 中3の夏、少年は“まじめないい子”から家庭内暴力児へ突如として変ぼうしました。「そんな子がどうして」という言われ方をよく耳にしますが、家庭内暴力児のほとんどは元“いい子”です。それではなぜ“まじめないい子”から極端な攻撃性が生じるのでしょうか。

 

《“承認不足”者の急増》

 親の関心と無条件の承認無しでは子どもは安心できません。どれだけ親から愛情が提供されていようと、それが条件付きであるとき、子どもはいつもその愛を失う不安におびえ、愛情提供の確証(承認)を得ようと必死になります。現在の日本の子どもは、程度の差はあってもおおむね自己尊厳の危うさを持っています。「私のような者がここにいてよろしいでしょうか」という気分を常に引きずっていて、親や友人など他者からの承認を求めてきゅうきゅうとしているのです。
 一方、現在の中高生を持つ親たちの多くは、敗戦により規範と連帯を失って「学歴」「根性」の強調しかできなくなってしまった両親を持っています。幼少時から高度成長が始まっており、「学歴=いい人生」というカルトのような狂信が列島にみなぎる中で彼らは大人になりました。そのような発展途上の社会では、皆と同じ方向に走っていれば「これでいいんだ」という安心感を持つことができました。
 ところが生命の危険がなくなり、モノが飽和した社会になると、価値観は無数になり、その優先順位があいまいになります。「学歴=いい人生」「男は仕事だけしていればいい」という神話の神通力も失せ、父親は自分が単に「いるとうっとおしい人」という立場になっていることを自覚せざるを得なくなっています。さらに、365日頑張ってさえいれば“承認”が保証されていた職場という最後のとりでも、リストラという大波に風前のともしびです。母親の方も「夫と子どものことばかりの人生で終わっていいのだろうか」という不安が頭から離れません。しかし、夫とのコミュニケーションから“承認”を得ることはあきらめています。
 このような両親の状態では、親が自分の承認不足を子どもを通して満たそうとするため、ますます子どもを追いつめます。親が承認不足である場合、子どもは親自身の承認の道具に過ぎなくなります。そうなると、子どもは当然“いい子”にならざるを得なくなるのです。

 

《罪悪感から暴力へ》

 現在の親は程度の差こそあれ「人より勉強ができて」「人気がある」ことを子どもに望んでいます。「いえいえ私は子どもに勉強しろなんて一度も言ったことがありません。自主性に任せてあります」といったことを言うお母さんの顔にも「学歴第一」と書いてあります。しかし、これを100%満たそうとする無理が続くわけがありません。“まじめないい子”の中に「これではいけない」という焦りと、親に対する後ろめたさ、申し訳なさのような感覚が生じてきます。この罪悪感こそが極端な「甘え」と「攻撃性」を生じさせる元凶です。
 ある母親が「頑張りなさいね」と声をかけたその瞬間、「これ以上どう頑張れっていうんだ!」とわめきだし、すさまじい破壊と暴力が始まる…。こういったことは、罪悪感に追い詰められている場合、いつ起こってもおかしくはありません。バスジャック少年もそのような“いい子”であったと考えられます。