第129回 親子という人間関係(1)~「パワー信仰」が反映する親子関係~
“止まり木”求め さまよう心(山陰中央新報) | 2003年11月9日
変化が激しく、競争的な社会である現代にあって、私たちは常に「緊急事態」のようなストレスフルな生活に陥りやすくなっています。不安に苛まれた現代人にとって、人間関係とは安心の源でもあり不安の種でもあります。人間関係の中でもとりわけ重要であり、根源的な関係である親子関係について考えていきたいと思います。
《「パワー信仰」が支配する社会》
現代社会の不安にさらされる多くの日本人は「パワー」を信仰しています。自己や他者をコントロールできる力で安心しようとし、常に頑張っています。そして思うように頑張れていないと途端に不安に陥ってしまうのです。
私たちの子どもに対する態度には自己愛や自己肯定感がそのまま反映されており、自分を扱うように子どもを扱っているといえます。現在の日本にあまねく広がる「パワー信仰」が親子関係に反映しないわけがありません。私たちは程度の差こそあれ「こうでなければならない」「これでいいのだろうか」といったこだわりや不安に満ちています。そして自己のさまざまな部分を否認・否定をしたり、誇大的に振る舞ったりしてバランスをとっているのです。しかしそのような私たちの生き方自体が自分や子どもに与える影響について、もっと考えてみてもよいでしょう。
《親の眼に映る「自分」》
子どもにとって親との関係が安心の源であることは間違いありません。この世界で自分がどのような存在であるかを「親の眼に映る自分」を基に形成していきます。無力な状態の子どもにとって有り難いのは「余裕のある親」です。子どもが自分の内からわき起こるさまざまな欲求や感情をおおむね認識して対処してもらうことは、自分という存在や自分の欲求や感情というのが世界と共存しうるという認識と自己を肯定できる安心の基礎をつくります。
逆に余裕が乏しい大人の中で「子ども」をやるのは相当苦しいことです。自然にわき起こってくる自らの欲求や感情に対し、「どうして周囲を困らせるんだ」という顔で常に対応されたとしたらどうでしょう。根源的な人間関係である親子関係において、このような扱われ方が持続した場合、子どもにとって自分という存在は非常に「申し訳ない」ものになってしまうのです。
《生きる実感の喪失》
自分が申し訳ない存在であるという刷り込みは、長きに渡りその人の人生を支配します。周囲に「申し訳がたつ」存在となるために懸命の努力を続け、周囲の顔色に非常に気を遣います。自分を目立たぬように縮小させたり、逆に大きく背伸びをした振る舞いをすることで認められようとします。まるでそこに居ないかのようなおとなしい子どもであったり、大人のような態度の子どもであったりすることが多くなるのです。しかし「そのままの自分ではいけない」という思いは、自分の自然な欲求に蓋をする癖を形成します。自分という存在から湧く欲求に根差さない生き方は「奴隷労働」のようなものであり、生きている実感と喜びに乏しく、自然な意欲とは無縁の生活となっていくのです。
《安心に向けて》
生き方や人間関係の持ち方は世代間を伝播します。私たちは何をしたいのでしょう。今私たちはいきいきと生活しているでしょうか。不安にかられ、やみくもにパワーと蓄財を望むだけでよいのでしょうか。安心を得られる生活や人間関係とはどのようなものなのでしょうか。次回もまた考えていきたいと思います。