第122回 家族と幸福(2)~「依存症」な現代人~
“止まり木”求め さまよう心(山陰中央新報) | 2003年7月6日
「ここは安全だと思うか?」と尋ねられ、「もちろん。この辺りはよくパトロールされているからね」と米国人が答えるのを聞いて発想が異なることを痛感したというエッセイを昔読んだことがありますが、それから20余年経って再びこの文章に触れると、かつてほどの「発想のギャップ」を感じない自分に気付きます。これはおそらく日本人の標準的な発想が米国化しているということでしょう。すなわち「安心とはパワーである」という考え方です。
《疲れる「安心」》
現代日本において、社会全体が共有する欠乏感や目標が失われ、人々の「まとまり」がつきにくいことは明らかです。言い換えれば、社会が人と人との結び付きを容易にする機能を果たしにくくなっています。社会のサブシステムである地域や学校、職場、家族なども機能不全に陥りやすく、その中にいて楽に過ごせなくなっています。例えば家族においても、自分がそのままではいられずに周囲の期待に比して「マイナス何点」とか考え、焦ってしまいます。自分がそのままではマイナスであると感じ、常に何らかの「やるべきこと」に追い立てられているというのが現状です。全てにおいて高いレベルを維持できるパワーのみが周囲との関係を保証し、その結果、安心につながるという非常に疲れる「安心の枠組み」が横行しているのです。
男性はきちんと仕事をしていること、強くあることなどに追い立てられるため、家族に暴力的な言動が出たり、飲酒量が増えたりします。女性も良い娘であったり、できた嫁や妻であったり、仕事もきっちりこなせる人であったり、上をみればキリがなく、生き抜く暇もありません。子どもであっても「やるべきこと」は多数あります。いつも明るく元気で、人に好かれる子でなくてはならないとか、でも成績は隣の子に負けてはいけない…などと考えて緊張しています。親に申し訳ないため、これらが充足されなかったり失敗することを極端に恐れたり、無関心を装ったり、あるいは逆ギレしたりします。このように現代を生きる家族の成員は大人も子どもも何やらいつも「安心」を求めて汲々としています。しかし焦れば焦るほど安心から遠ざかってしまうという不幸な状態です。
《依存症のベース》
ヒトは生まれ出たときから、寂しさや不安を抱えざるを得ません。それが人間関係を形成する原動力となります。
アルコールや薬物、過食症・拒食症、ギャンブルや買い物などへの依存を扱う現場では、これらの依存症はある種の人間関係の特徴から生じた二次的なものであるとしています。依存症のベースとなるのは、ヒトがヒトを求め、他者をコントロールすることで寂しさや不安から逃れようとする欲求や行動によって特徴づけられる状態です。ヒトは不安や寂しさから完璧に逃れようと欲すると、他者や自己の欲求をパワーでコントロールしようとしてしまいます。しかしもともと制御できないモノをコントロールしようとしているため、終わりのない悪循環に陥ってしまいます。寂しさや不安が適切に対処され、何とかなったという経験が乏しい場合、安心できる予測がたたず、底知れぬ恐怖にまで至ってしまうかもしれません。その寂しさや不安を少しも感じたくないのであれば、常に何かに熱中していたり、アルコールや薬物、パチンコなどに耽溺していなくてはなりません。依存症とは、無条件に抱擁されたり、授乳されたり、愛されたりすることのすり替え行為なのです。
現代人は不安や寂しさで一杯の幼児期でさえ、家族や社会の中で「無条件の居場所」を十分には提供されていません。それどころか無力を批判され、そのような力では生きていけないし、誰からも相手にされない、などと脅されています。これは安心を育む無条件の承認とは程遠い状態です。依存症や引きこもりのような事象が蔓延する現代社会に足りないのは、さまざまな能力を行使できるパワーではありません。パワーレス(無力)を自覚できる安心感こそ必要なのです。