第60回 コミュニケーションを考える(3)~真っ当なコミュニケーションに向けて~
“止まり木”求め さまよう心(山陰中央新報) | 2001年10月27日
《ホームレス襲撃事件と人権教育》
以前、小学生数人がホームレスの男性を、エアガンで撃つという事件がありました。この種の事件は数年前から頻発していますが、筆者が注目したのは、その児童らが通うという小学校長のコメントです。事件後の取材に対し「障害者らへの人権教育はしてきたが、ホームレスについては盲点だった」と語ったというのです。ここにはこの校長先生の考える「人権教育」というものが、如実に表現されています。
校長のいう人権教育とは、「差別はいけません」「お年寄り、障害者は大切に」などというお題目を唱えるだけのものであり、子どもたちはそれを暗記し、おうむ返しができれば「合格」というものなのでしょう。さもなければ「ホームレスは盲点だった」などという発想自体がでてきません。
当然ですが、人権教育とは「他者と自分を尊重する」ためのものであり、単なる「暗記モノ」ではありません。加えるならば、「弱者救済」などというおごった考え方で行うものでもないのです。そのような「わかりやすい正当性」を旗印にした反論を許さない一方的な主張は、人権教育とは程遠いものであり、コミュニケーションの構造としてはイジメと全く同等のものです。
私たちはどのようにしたら一方的なコミュニケーションを排し、自分と他人の意見を尊重できるようなルールを身につけることができるのでしょうか。
《解決に向けた枠組み共有を》
食べることに困らない社会を生きる私たちが抱える苦しみの多くは、この「一方的なコミュニケーション」の連鎖が生み出したものです。
イジメ、児童虐待、ドメスティックバイオレンス、家庭内暴力などもこの連鎖の一環です。そしてアルコールや薬物へのおぼれ、過食や拒食、借金やギャンブル、自傷や他者への暴力などの問題も、この連鎖が生み出した「人間関係の問題」を基盤にしています。
この一方的なコミュニケーションの連鎖を断ち切るには、まさに教育の「構造改革」が必須(ひっす)でありましょう。その第一歩は、現在生じているさまざまな問題を解決可能な枠組みでとらえ直すことと、それを大人たちが共有し、議論の土台をつくっていくことです。
現在の多くの議論が不毛なのは、「解決可能な枠組み」で議論がなされていないからです。筆者はこの「枠組み」のたたき台を提供しようと試みてきました。今回で60回を数えるこの連載で扱った事件や問題の背景には、「自分と他人を尊重できない」「一方的な」コミュニケーションが必ずありました。この解決は当然、容易ではありません。
次回もその解決の模索(あがき?)の一端を述べてみたいと思います。