第45回 父性なき社会(1)
“止まり木”求め さまよう心(山陰中央新報) | 2001年7月14日
大阪の児童殺傷事件に関連して、現在の父性欠如(無責任)が蔓延する社会について前回述べました。
父性は内と外を区切り、善悪を区切ります。そのような人間関係の前提となる枠組みを周囲の大人が尊重し、自らそれに責任をとっているとき、父性は機能し、規範は権威をもち、子どもは世界の中に自分を位置づけることができます。
《アノミーとは何か》
父性が機能を失ったとき、規範は失われてしまいます。それがアノミー(無規範)状態です。アノミーとは以前にも触れましたが、自殺の研究から出てきた概念です。
人は失敗したり、逆境にあるというだけで自殺するわけではありません。例え「成功した」としても生きていられないほどの苦しさに陥ることがあるのです。
ある人が事業で成功します。この人はこれまで安い居酒屋に集まる仲間をもっていました。ところが彼の事業の成功後、その場は彼にとって心地のいい居場所ではなくなってしまいました。
しかし、もともとの名士の人たちからは「この成り上がり者め」という目でみられ、とけ込めません。彼の成功は彼から他者とのつながりを奪ってしまったのです。彼は苦しみ、自殺するかもしれません。これは単純なアノミーの例です。
社会的に大きなアノミーは革命や敗戦などによってもたらされます。その社会規範に中心的な役割をなしていた原理が崩れたとき、大アノミーが生じ、人々は自分の存在をどのように位置づけてよいかわからず大きな苦悩に陥ります。
当然自殺率も上昇します。逆に他国との戦争中は国内の自殺率も犯罪率も下がったりします。それは国内の連帯が強固になり、国民の人間関係の基盤となる規範の遵守にも人々が非常に積極的になるからです。人々の連帯と規範というのはこのように連鎖して機能します。
それゆえにアノミーとは「無連帯」のことでもあるのです。人間は連帯を失ってしまったとき、自分を位置づけることも、規範に従って行動することもできなくなってしまうのです。
《敗戦トラウマと父性の喪失》
日本には宗教教育がなく、欧米のように宗教を通して規範を教えているわけではありません。欧米人の中には、相手が無宗教と聞けばつき合いに腰がひけてしまう人もいます。無宗教イコール無規範というイメージになってしまうからです。
彼らにとって客観的に絶対に正しい「神」を持たないということは、互いのコミュニケーションの土台を危うくすることなのです。
しかし、これまでの日本は欧米諸国以上に規範が存在する社会でした。それは地域共同体の連帯がもたらす「道徳」という規範が機能していたからです。しかし敗戦後から地域共同体は崩壊の一途をたどっており、それに伴って共同体の連帯に依存していた不文律が機能しなくなってきたのです。
そしてまた敗戦後の大アノミーを吸収したカルト集団のような日本企業やそれを支えた「いい学校、いい会社、いい人生」という教義にもほころびが目立ってきました。長年の企業戦士生活の後のリストラをきっかけに自殺するケースも急増しています。
敗戦後の教育は「自由と平等」「民主主義」をスローガンに進みました。しかしそれはすべての権威の否定を通してのものでした。誤解を恐れずに例えるならば、他者に父を殺された子どもが「よかったね。これで君は自由だよ」とその加害者に言われ、父を喪失した混乱の中にいた子どもが「これでよかったんだ」と一生懸命信じようした。そしてそれが権威的なものに対するアレルギー、すなわち強迫的に父性を排除する行動につながったのではないでしょうか。
その敗戦のトラウマは今も尾を引いています。戦後の「父なき世代」が父となるとき、その子どもたちはあらゆる権威を信頼にたるものと思えなくなったのです。
あらゆる規範は権威を失い、連帯はますますほころびを極めました。そして現在、「どうして人を殺してはいけないのか」という疑問を「普通の」少年が発するまでに至っているのです。
このような現状を打破する手立てはあるのでしょうか。次回以降考えていきたいと思います。