第16回 赤碕母親絞殺事件(3)

 先日、鳥取家裁で少年の審判が開かれ、焦点になっていた殺意の有無について“未必の故意”があったと認め、処遇期間2年以上の中等少年院送致とする保護処分を決定しました。すなわち「積極的に殺そうとしたわけではないが、死んでも構わないという気持ちがあった」という判断がなされたわけです。前回述べましたが、少年にあったのは確定的な殺意ではなく「分かってくれよ」という気持ちと、侵入してくる母親に対する恐怖であったと考えられます。少年は自己選択の余地をどのようにして奪われてきたのか、またどうして母親にそれほどの圧迫感と恐怖感を抱くようになったのかという点に注目しながら、事件の経過を追ってみたいと思います。

 

《依存性暴力の芽》

 少年はもともと父方の祖父と両親、そして2人の妹と暮らしていました。昨年2月に両親が離婚。それに伴い母親と妹2人とともに同じ町内に転居したのです。少年の父親はあまりコンスタントに働かれない方だったそうです。一方、母親の方は非常にきっちり仕事をされる半面、そのような夫に対してかなりの言い方をされていたようです。なお、少年の弁護団の方から、母親からの少年に対する虐待を強調されていましたが、どのようなものであったのか詳細は分かりません。
 一般に、夫がアルコール依存傾向などがあってあまりコンスタントに収入がない場合などに、妻が夫を罵倒すると同時に、その息子の言動に「夫の似姿」を見て、ひどい折檻を繰り返すということがよくあります。コンスタントに働けない男性というのは、自尊心がひどく傷ついている方に多く、悪循環からなかなか抜け出せないのです。彼らは自尊心の傷つきと名誉ばん回への焦りという苦しみに追い詰められていますから、アルコールによる酩酊や依存的暴力の繰り返しなどに陥りやすくなります。要するに「今のままでは現状を受け入れられない」「だれか何とかしてくれ」と繰り返し表明しているような状態です。
 夫のこのような“幼児がえり”状態を苦々しく思っていた妻が、自分の子どもに対してこのような甘えを一切許さないという態度を取ったとしたらどうなるのでしょうか。子どもはどんどん追い詰められるでしょう。子どもは乳幼児期を通して、まずその存在を丸ごと承認されるという経験を経て健康な自己愛を育てます。「いい子だから存在を認められる」のではなく、夜中に泣くこと、病気になること、期待のように育たないこと等も含めて自然現象のように大人に受け入れられることが大切なのです。「七歳までは神のうち」といわれるのはこのためでしょう。あまりに急いだ「しつけ」はこれを台無しにし、自己決定ができず、人の目ばかりを気にする癖をつけてしまいます。おそらく、このあたりに少年が母親に振るった依存性暴力の芽があります。

 

《封殺された叫び》

 彼はおそらく父親には強い共感のようなものを感じていたことでしょう。しかし、その父親は昨年2月に不本意にも離婚となり、半年後の8月には亡くなってしまいます。この父親は少年にとって「母親(に強要されていた生き方)とは違う生き方の可能性」を象徴した存在であったと考えられます。その死によって彼は一気に人生の選択肢が狭まったような感覚に陥ったのではないでしょうか。事実、父親の死のころから、これまで真面目過ぎるほどの生徒であった彼が、ささやかな校則違反をするようになったことを級友は認めています。
 事件当日の朝、少年は学校の行事に参加して昼食を外食する予定だったため、母親に小遣いをねだって断られます。行事から帰宅後、少年は5日前から始めていたアルバイト先の飲食店に向かいます。そこに突然飛び込んできた母親が「学校で許可されていないでしょう」と言って店主にあいさつもないまま連れていきました。その後、友人に譲ってもらったCDプレーヤーについて、母親から「乞食みたいなことするな」「そんな子は出て行け」などと罵られたことから暴力が噴出します。過去から現在に至るまで、自分の欲求をすべて母親から否定され、彼の存在は封殺の危機に陥っていたのではないでしょうか。
 暴力を振るいながらも彼は母親の圧力に脅えていたと考えられます。その恐怖のために背後から首を押さえつけました。これまで彼が強い欲求を表現した後、母親にされた数々のつらい仕打ちとその恐怖が彼の脳裏をよぎったことでしょう。そして彼はその手を緩められなくなったのです。動かなくなった母親の姿に慌てて心臓マッサージを行うなどしましたが、すでに手遅れでした。

 

《健康な自己愛》

 皆さんはどのような視点でこの事件を見られるでしょうか。筆者は健康な自己愛、自尊心というものがいかに大切であるかということをあらためて実感しました。ここに不全が生じると、人は耐え難い寂しさに容易に陥ります。それは依存性暴力にも、アルコール依存にも、わが子をアビューズ(乱用、虐待)してしまうことにもつながります。子育ての早期に、真に大事なことは、おむつを早く外すことでも箸(はし)の持ち方をうまくすることでもなく、自分の存在はそのままで人に受け入れられ愛されるのだという感覚を持てるように、周囲が余裕をもって見守ることでありましょう。これこそがまさに親が子にできる最大のプレゼントなのです。