第14回 赤碕母親絞殺事件(1)
“止まり木”求め さまよう心(山陰中央新報) | 2000年11月25日
鳥取県赤碕町で今年10月、県立高校三年生(17)の長男が自宅で母親(40)を絞殺するという事件が起こりました。この事件に関しては、情報が非常に少ないのですが、とても重要な示唆を含んだ事件であると思われます。子どもによる親殺しはなぜ起こるのか、それは家庭内暴力の延長線上にあるのか否かなどについてまず述べたいと思います。
《親を殺す子ども》
中国の歴史書などには、親が子を殺したり子が親を殺したりという話は山のように出てきます。ただ、現在のような核家族を中心とした社会で起こる親殺しには、世界的に見て一つの典型があります。それはアッパーミドルの比較的裕福な家庭で、子どもに思いを託して、より上の階層を目指そうとする親の締め付けが非常に露骨である場合です。このようなとき、子どもは親を抹殺せねば自分自身を見失ってしまうほどに追い詰められています。間断のない勝手な期待と叱責、子どもの自己選択や判断を許さず、友人となるべき人間の選択から時間の過ごし方まで、子どものすべてをコントロールしようとする親たちがそこでは「犠牲者」になります。
《家庭内暴力と親殺し》
一般的に家庭内暴力児が親を殺すことはありません。以前にも述べましたが、子どもの家庭内暴力の本質は依存であり、殺しては元も子もないのです。その依存が生じた原因は、安心感のある親機能をホームベースにして自己の判断で試行錯誤を繰り返すという訓練をまったくしていなかったからです。そのような子どもが、思春期になって挫折した際に立ち直れず、「こんな自分にだれがした」「責任取って何とかしてくれよ」という状態に陥っているのが家庭内暴力です。
このような暴力がだらだらと続いて、ある日ついに…というパターンの親殺しはまずありません。筆者の知る限り、子どもによる親殺しが起こる場合は、暴力の最初の出現がすなわち「事件」につながっています。計画的であることもしばしばです。
彼らはその成育過程で、親に甘えることで何とかしようという発想に結び付くような経験がほとんどなかったのでしょう。親に反抗することにおける彼らの不安と恐怖は並大抵ではありません。反抗した時の親の反撃ほど怖いものはないわけです。だからこそ、最初の反抗が必殺の行為となってしまうのです。
今回の事件では、少年は殴るけるの暴力の後で母親を絞殺しています。なぜ途中でその手を緩められなかったのでしょう。彼が抱いていた底知れぬ不安と恐怖の出所は何であったのでしょうか。そしていったい何がこれほどの「閉塞感」を少年に持たせてしまったのかについて、次回考えていきたいと思います。