第1回 少年事件
“止まり木”求め さまよう心(山陰中央新報) | 2000年8月26日
いつの間にか「少年事件」が新聞の紙面に指定席を持つようになりました。連日、何らかの報道がされているのですが、その動機は「殺したいから殺した」というようなものであり、従来の常識では理解し難いものです。
これには警察、検察、弁護士らもさぞ困っていることでしょう。罪状は明白で疑う余地はない。第一、本人も認めている。しかし、なぜやったかを本人は説明できないし、周囲も理解できないのですから、これではまともな起訴状も書けないし、どう弁護したらいいのか途方に暮れてしまうことでしょう。
《異常探し》
動機の分からない警察もいら立つでしょうが、世間もいら立ちます。何とかこの凶悪事件を理解しないと安心できない。人は自分の身近にある理解できないものには大きな不安を持つものです。「ごく一般的な家庭で、子どもが親を金属バットで殺しました」というようなオチでは困るのです。
そこで必然的に、マスコミ報道は「異常探し」の様相を帯びてきます。「少年は平然と朝食を残さず食べた」「顔も隠さずに無表情のまま」などと、いかにも「異常」をにおわせた書き方や、「不登校」「浪人生」「学校を中退したまま無職」など、今どきそれがどうしたということまで、いかにもそれが犯行理由のように書くのです。さらに精神科医、心理学者らが次々とコメントを付けるのですが、これは結局「精神病理」という名の「異常探し」なのです。学校などに「悪者」を見いだすのも同じことです。
《解決に向けて》
この「異常探し」は、その驚愕(きょうがく)すべき事件と自分との間に大きな距離を置こうとする心の動きです。これは、突き付けられた問題の負担を和らげてくれるのですが、同時に問題の本質を見失わせ、解決への動きを遅らせてしまいます。
この連載では、動機の見えにくい事件のほか、児童虐待、犯罪被害などの事象を扱っていく予定ですが、明確にすべきは当事者の特殊性ではなく、われわれとの共通点であると考えます。
現在頻発している“分からない”事件や事象は、その当事者の特殊性・特異性から生じているのではなく、時代を共有している私たち自身と同じ根から発していて、特殊どころか、私たち以上に私たちを映し出している鏡であると思うのです。
彼らの暴走は、われわれの生きづらさと同じものをベースにしています。それをごまかし切れなくなっているのが彼らなのです。私たちは、どのような姿なのか。それを私たちが直視して初めて、解決への歩みを進め、真の安らぎに近づけるでありましょう。