父性と母性を考える(上)
ストレス社会を生きる(日本海新聞) | 2001年7月14日
父性や母性について、今ほど多くが語られたことはおそらくないでしょう。さまざまな少年事件、いじめ、不登校、ひきこもりなどの問題を論じられる時も「父性」「母性」という言葉はしばしば登場します。母原病だの父原病だのという言葉も盛んに使われました。しかし残念ながら、具体的にどのようにしたらよいかということについてはあまり満足すべき回答はなされていません。
「父性の復権」を叫ぶ人々は、父親がもっと子どもを叱るべきだとか愛情をもって殴るべきだなどと主張します。多くの父親は「そういわれてもな…」と感じるでしょう。また「母性が大切」と叫ぶ場合は「子育ての重要性と意義を見直そう(母親はその重要さを理解して仕事を数年間やめよう)」「母乳で育てよう(この大切なスキンシップ無しではまともな子も母性も育たない)」などというような話しになりがちで、今一つ納得がいきません。女性が働いているとか、母乳で育てないことイコール「母性の喪失(悪い母親)」という恐ろしく短絡的な結論が多いことが、それらの主張に素直にうなずけない理由です。
父性とは何か
父性とは「区切る」ことであり、母性とは「包む」ことと一般にはいわれます。父性は父親、母性は母親と決まっているわけではありません。男性にも女性にも父性と母性が同居します。
父性の「区切る」という仕事は、内と外を区切り、善悪を区切り(いわゆる父性原理です)、母子密着を区切ります。子どもは生まれると「お前はうちの子だ」「お前は人類の一員だ」という父性と出会います。それは別に父親が叫ぶわけではありません。そのような枠組みを尊重する周囲の大人の態度こそが「父性」です。「人を殺してはいけない」といったこともこの枠組みに含まれてくるのです。人と人が人間関係を結んでいく基盤となる「枠組み」に周囲の大人が責任をとっているとき、父性は機能しているのです。大切なことは「責任をとっている」という点であって、親が子どもに「他人に迷惑をかけるな」といつも言葉にしていたとしてもそれ自体に大した意味はないのです。人間関係を結ぶ前提となる善悪というものに対して親自身が「バレなければいい」「事情で仕方がない」などという無責任な態度をとっていれば必然的に父性は機能を停止するのです。父性のカリスマはきちんと責任をとることから高まるのであって、暴力性が重要なのではありません。
父性欠如の蔓延
薬害エイズの被害者と厚生省官僚の討論を以前テレビで見ましたが、その官僚は「厚生省という中にいるとね、仕方なかったんです」といったようなことを繰り返し言っていました。また最近では、大阪児童殺傷事件の犯人の父親が「普通の教育をした」「どちらかというと『日本主義』『大和民族主義』という形の教育だった」などといい、「いつかは何かやると思ってた」などと他人事のように言っていました。このような人たちは理屈や暴力の力を奮っていたかもしれませんが、父性は機能しているとはいえません。善悪に自らの責任をとらず、息子という「内なるもの」に対しても責任を全くとろうとしていないからです。
残念ながらこの種の無責任は現在日本中に蔓延しています。規範は無力化し、人々は人間関係を形成する共通基盤をもてず、自分自身の存在を位置づけする確かな枠組みももてません。その中で若者がオウムのようなカルト宗教に走り、「人を殺す体験をしてみたかった」などといって殺人を犯します。それほどまでに信頼にたる「父」と出会えない状況であるといえましょう。