第136回 世紀末事件は何を象徴しているのか~オウムと神戸連続児童殺傷~

 オウムの松本被告の死刑判決や神戸連続児童殺傷の当時14歳だった犯人の仮退院など、わが国の世紀末を代表する事件に関する報道が最近続いています。これらの事件は今の時代を生きる私たちが抱える困難が象徴的に現れた事件であるといえるでしょう。

 

《オウムとは何だったのか》

 松本被告は「力さえあれば安心」という信念で自分を支えてきた人物です。裏を返せば非常に脆弱な自己肯定感を立派そうな外面で支える必要があったのです。しかし彼は特別な能力があったわけではありません。たしかに、人の弱みを鋭く見抜き、相手に対して上位のポジションをとる技術にはずば抜けたものがあったようです。しかし彼を「教祖」にしてしまった主要因は、彼のもとに集った多くの若者たちの「必要性」にあります。若者たちの必要としたものとは変わることなき絶対的な存在です。そのような超越した存在が自分の身近にいて、自分に道を説き、自分を認めてくれるということを若者たちは希求していたのです。その切なる希求に基づいた妄想が、松本被告を教祖にしてしまったのです。そして松本被告自身の誇大自己の必要性とあいまって両者とも妄想をエスカレートさせ、歯止めが利かない状態になっていったのだと考えられます。

 

《少年は何をしたかったのか》

 神戸連続児童殺傷の当時14歳の少年は、社会の中で「透明な存在」であり、自分を「確かなもの」にする必要性に迫られていたと考えられます。殺人という、他者に対して最大級のインパクトがある行為を行い、それをバイオモドキ神という空想上の神を介して自己を承認するという手続きをとって、自己の存在を確かなものにしようとしていました。それはもはや「社会」の介在しない妄想による自己肯定手法です。社会が介在しない以上、社会的な善悪が入り込む余地はありません。このような手法を少年がとる背景には、そのままの自分を社会(親や学校など)に認めてもらうということについての絶望があるでしょう。社会において自分などどうでもいい存在に違いないと確信していたのです。

 

《事件の背景にあるもの》

 これらの事件の背景として、個人を取り巻く社会的な要請があまりにも流動的であるということは無視できません。周囲から求められるものが、あまりにも多様で、あまりにも変化が速いのです。このような中で、常に周囲のニーズに応えようと一生懸命やってきた者ほどそれに疲れ、自分という存在の確かさに自信がもてなくなります。そして決して変わることのない存在を求めます。これは自分という存在を他者との確かな関係の中で位置づけたいという願望です。何らかの他者との関係、すなわち社会の中での安定した位置づけがなされていない状態は人にとって耐え難い苦痛です。
近年の社会からの多様な要請をあらわす言葉の一つに「グローバルスタンダード」というのがあります。「これでは生き残れない。○○のようにするのがグローバルスタンダードだ」というふうな形でよく耳にします。しかしこのような要請は、変わらぬ正義に根ざしたものではありません。人類が幸福に共生するためのルールでもありません。米国流の目先の利益に向けて敏感に変わり身するという態度です。とりあえず、カネや地位を獲得するのには有利でしょう。しかしそれらがもたらす安定と安心はどの程度のものなのでしょうか。そのような「安定と安心」を得るために私たちはどれだけの不安や緊張を日々強いられているのでしょう。このようなおかしな形でしか社会的に安定できないのならば、それは社会の形が不適切であるに違いありません。私たちは「グローバルスタンダード」より人が容易に社会の中で安定的でいられる枠組みをもてるはずです。