第131回 親子という人間関係(3)~社会の激変と親たちの苦悩~

 前回、社会性(他者と上手に共生していくスキル)を育てる親子関係について触れました。中教審(中央教育審議会)が「新たな公共をつくる」として「小中高生にボランティア活動を義務化する」という答申を出した際にも述べましたが、現代社会の公共性・社会性は自発性を押しつぶして作るものではありません。
 「自発性を育てる」のと「言われなくても親の期待に沿ったことを“自発的に”やるような子どもにする」のは明らかに違います。そもそもボランティア(volunteer)とは「自由意志」を意味するラテン語を語源としており、英語では「志願者」とか「自発的にする」といった意味を持っています。「自由意志」を大切にし、そこから社会性を培っていく教育は筆者が常日頃から主張していることですが、中教審のいうボランティア活動は全く逆さまの意味なのです。何ゆえこのようなことを中教審やお役人や政治家は考えるのか、その背景に少し触れましょう。このことは実は今の親が子どもにとりやすい態度と非常に関係しているのです。

 

《お役人の増長と国民の思考停止》

 日本の教育システムは一言でいえばこれまで富国強兵政策時代のシステムをそのまま流用したものでした。ものを考えたり判断するのはお役人で「決められたことを忠実に実行できる」人間を大量に育成することに教育システムは焦点づけられていました。そのように育てられた多くの「優秀な人材」と列島を覆っていた経済や科学の発展の先にある幸福イメージが人々を勉強や仕事に駆り立て、結果として著しい経済発展を成し遂げたのです。このような中で日本の役人は、国民は余計なことを考えずに言われたことを従順に実行すればよいという考え方を修正できぬままにきているのです。そして国民もまた思考停止の癖が抜けず役人に頼らざるを得ないという悪循環が生じているのです。

 

《目標喪失の中で》

 しかしモノが充足し、社会が発展途上から成熟の過程に入ると、目標を失った「優秀な人材」たちはどうしていいかわからなくなりました。共有する目標を喪失し、多様な価値観が溢れる時代に急速に突入した日本はどの世代においても大きな戸惑いが生じました。外部に確固としたものがあり、それに寄与するようにただたた努力し、目的を共有する同志とは自然に連帯できるというスタイルはもはや難しくなりました。
 無数の小集団が生まれ、そのような集団に多元的に所属するというスタイルで生活する若者が増える一方で、そのような器用なことはできずに悩む人々が増えました。
 熱中できる目標を求めてさまよいつつも、いつまでも安心できない状態が続くのです。一部の若者は悩むことなく「素晴らしきもの」のために努力できる環境を求め、オウムのようなカルト集団に走りました。そこまで極端なことをできない人々はさまざまな方面から求められる膨大な「やるべきこと」を抱え、感情や感覚の裏打ちのない視野狭窄の中で「忙しい」生活を送ったり、十分にできない自分に焦り、自己嫌悪や自責で追い詰められたりしていったのです。そして大人である親たちのそのような状況は、親の分身である子どもへの態度にもそのまま反映されたのです。
 次回はこの状況を打開する方向性について考えてみたいと思います。