第127回 ストレスを考える(2)~慢性緊張を強いる社会システム~
“止まり木”求め さまよう心(山陰中央新報) | 2003年10月5日
前回はストレスの功罪と「悪いストレス」が生じてしまう条件について述べました。慢性緊張の上にさらにストレスを加えることは、それがどんなに素晴らしい目的をもっていたとしても全て「悪いストレス」になってしまいかねません。しかし私たちはより大きな力を発揮しようと頑張ることを子どもの頃から習慣づけています。その頑張りの結果や成果を「安心の源」として生きているかのようです。私たちが常に「頑張ろうとしてしまう」背景には、尽きることのない不安感があります。
《Winner-take-all型社会》
競争的で米国型の少数者による富や権力の独占を奨励するかのごとき社会の到来により、不安や焦り、ルサンチマン(不満や恨みの鬱屈)が社会に充満するようになりました。その結果、米国の後追いをするようにアルコールなどのアディクション問題は深刻化し、治安は悪化しています。それでも米国ほどそれが目立っていないのは、日本人には「社会的ひきこもり」という手段があるからでしょう。
現在若者を中心に100万人以上といわれる「ひきこもり」という現象はアディクションの一種と考えて間違いありません。少数の勝者がさまざまな権力や富を独占することを了とするWinner-take-all型の社会にあって、人間関係や就労などの社会的活動をall or none(全か無か)で捉えることから「ひきこもり」は生じます。「ほどほど」の状態では不安で仕方がないわけです。どうしてそんなに不安なのか。それは現代社会における「このままではいけない」「取り残されてしまう」といった感覚に追い立てられてしまう雰囲気に原因があるのです。
「今の力ではやっていけない、もっと頑張らないといけない」という不安や焦りは緊張を慢性化させ、アルコールやギャンブルなどの必要性を増してしまいます。またそのような不安や焦りを否認しやすい環境への「ひきこもり」を生じてしまうのです。
《「緊張による安心」からの脱却》
現代人は自分がよりパワーをもち、より緊張して細心の注意をもって仕事や人間関係に臨むことができれば「安心」であるかのごとき幻想を抱いています。しかし安心とは感覚であり、理屈ではありません。理屈で安心しようとすることはさらなる緊張を生みます。また安心とはリラックスであり、パワーではありません。パワーで得た安心は決して人にリラックスをもたらしません。
「これが達成されたら」とか「もしこの子が(この親が)こうであったなら」という形で自分にはコントロールできない「外部」に賭けられてしまっている「安心」は本物の安心とは程遠いものとなってしまうのです。
現代人の多くは安心を求めて緊張を続けてしまうという悪循環の中にいます。このストレスフルなゲームから降りるのは容易ではありません。しかし私たちが生きるのは「生活」であって「ゲーム」ではありません。仕事や人間関係は「勝ち負け」や「評価」を支えに行うものではありません。その時点での適度な付き合い方があるだけです。「適度」を教えてくれるのは周囲の人間や理屈ではなく、自分の感覚以外にはありません。