第121回 家族と幸福(1)~目標の喪失~
“止まり木”求め さまよう心(山陰中央新報) | 2003年6月22日
「いいこと」「すべきこと」に向かって合理的に邁進している現代人が、「思考停止」に陥っていることについて前回述べました。何かを手に入れさえすれば幸福や安心が保証されるのであれば、それに向けた合理的な努力は報われるに違いありませんが、そのような「何か」は幻想でしかありません。しかし現代人にとってそのような行動原理は一般的ですらあります。「安心とはパワーである」という信念が蔓延し、全てをコントロールしようといつも「なすべきこと」に追い立てられ、常に緊張を強いられている人々があふれているのです。
《目標の喪失》
すくなくとも高度成長の時代までは「何か」があれば幸せであるかのような幻想を抱えて生きることも容易でした。社会が豊かさという一定の目標に向かっていたからです。だから社会も安定しており、人々も迷わずに済みました。しかし、モノも機会も十分に充足した今、私たちは新たな問題に直面しています。目標を失い、どのように生きたらいいのかわかりづらい状況になってしまったのです。「どう生きればいいのかわからない」「何のために生きているのかわからない」という若者が急増しました。何をしても「これでいい」とは思えない。外部の何かを変えたらガラリとよくなるという気もしない。自分に何らかの問題があるに違いないと、常にもやもやとした気分を抱えざるを得なくなっています。このもやもやした気分が、嗜癖や自傷、引きこもりなど、現代的な「問題」とされているさまざまな行動のベースになっているのです。
《緊張を強いる社会》
人間の不安感は安心できる対象からの心理的な距離によって生じます。人間は常に安心を求めていますが、ヒトにとっての完璧な安心とは、羊水に包まれ、臍帯(へその緒)によって母体と物理的につながれている間にしかありえません。出生の瞬間から寂しさや不安を人は抱え、羊水とは違う環境の中で、臍帯とは異なる形での他者とのつながりを人は模索し続けます。試行錯誤で安心を得ながら、子宮から母の腕の中、親の視線の範囲、さらに家の外へと安心の領域は拡大し、「どこへいってもまあ受け入れられるだろう」といった安心感と自己信頼が醸成されていきます。そしてこれが自立の条件ということになります。
このような安心と自己信頼は、家族などの社会環境の中で育まれるのですが、現代はこの安心や自己信頼の持ち方に無理が生じやすくなっています。強大なパワーがないと安心して生きていけないような緊張を強いてしまう雰囲気が今の社会にはあるのです。これは社会全体が目標を失い、人々のつながりを容易にする機能を十分に果たしていないことから必然的に生じていると考えられます。