第6回 子育てを考える(1)~児童虐待(上)~
ストレス社会を生きる(日本海新聞) | 2002年2月5日
虐待関連の痛ましい事件が後を絶ちません。虐待防止が叫ばれ、全国各地さまざまなレベルでの動きが報じられています。しかし虐待とはどういうことなのか、何ゆえに起こるのか、対策にはどのようなものがあるのかといったことについて、私たちはほとんど何も共有していません。さすがに最近は虐待について「一部の異常な人が行うもの」という極端に誤った認識は見直されつつあります。しかし虐待というものがどれだけ裾野が広い問題から生じているのか、虐待防止活動とは何か、虐待を生じにくいシステム作りは考案できるのかといったリアルな処方箋はほとんど提案されていないのが現状です。
虐待とは育児システムのみならず家族というものに対する私たちの認識、ひいては生き方全般までをも視野に入れながら語らねばならない問題であることを強調したいと思います。
《大人はみな子どもを虐待する》
虐待とは特殊な人がするものではありません。人類を「虐待する人」「「しない人」に分けることはできません。要するに全ての大人は例外なく子どもを虐待しています。本質の違いはなく程度の違いがあるだけなのです。同じ人物でも昨年と今年、昨日と今日で“虐待指数”が上下しています。私たちが置かれている状況により刻々と“指数”は変化しているのです。
《虐待とは何か》
虐待にあたる英語はchild abuse & neglectです。アビューズ(abuse)とは乱用という意味です。つまり大人という強者がその力を子どもに乱用してしまうことをいいます。このような現象が起こりやすいのは、大人側の余裕が失われているときです。大人自身が不自由で自分が追い詰められているような時、「要求の塊」のような子どもという存在に対し、それを自然現象のように受け入れることは到底出来ません。子どもに理不尽な“責任”を求めてしまいます。「なぜミルクを飲まないんだ」「なぜ泣きやまないんだ」などといって乳児を殴ったり、無視(neglect)したりしてしまうのです。
力のある者が一方的に弱者の在り方を押しつけ、それに反すると暴力を奮うという現象は、社会のあらゆるレベルで生じています。それは強者から弱者へと連鎖しており、「男から女へ」などを経由して最終的に最も力の弱い“子ども”に被害が及んでいるといえるのです。
《虐待は親のSOS》
親は自分の自己愛を子どもに投影しています。子どもがかわいいのは親自身が自分という存在を大事にできているからです。自分が全く大切にされない、されたこともないという状況で生きている人が、子どもを生んだから単純に子どもがかわいいと思えるわけではありません。虐待に対する有効な援助とは、まず切羽詰まっている大人の負担を減らし、自分をケアできる余裕をもてるようにしていくことにほかなりません。虐待の被害を受けている子どもの悲鳴は、同時に「親のSOS」でもあります。虐待問題とは私たち一人一人のメンタルヘルスと深く関わっているのです。