第112回 心の病とはなにか(4)~「身体」「社会」の恒常性と心~
“止まり木”求め さまよう心(山陰中央新報) | 2003年2月9日
《身体・社会の恒常性》
生命体とは一個の「自然」です。さまざまな現象が常に生じながら一定の秩序を維持しています。そのような平衡状態をホメオスタシス(恒常性)といいます。
例えば何らかのストレスに反応して血圧が上がったとしましょう。上がりすぎれば調節機構が速やかに働いて平常状態に戻るのが健康体です。つまり健康な身体とは「血圧が上がらない身体」をいうのではありません。刺激に対して必要になったら200以上にでも上げるが、速やかに制御機構が働くような身体です。
人間の社会というのも一個の「自然」ですからホメオスタシスが働いています。ですから健康な社会とは「問題が起こらない社会」をいうのではありません。問題が生じた際に、それを処理するシステムが機能しているか否かで判断されます。例えば「犯罪が少ない」だけでは、良い社会とはいえないのです。それが生じた際に、司法や行政といった処理システムが十分に働き、納得行く形に落ち着くということが大切なのです。
《心とは何か》
人間の「心」とは、社会と自分という各々の「自然」の間を橋渡しする目に見えない調整役のようなものです。社会という周囲の環境と常に交流しながら、自分という一個の「自然」の秩序も維持する機能を担っています。
検査データに異常がない「良い身体」と犯罪率が少ない「良い社会」があれば心の平安が保たれるわけではありません。そして単純に「良い身体」と「良い社会」を目指すだけでは、おそらく安定した状態を長く維持することは困難でしょう。人と社会が真に健康であり、恒常性が維持されているためには「安定した心」が不可欠であるのです。
《心が乱れるとき》
心の平安にとって必要なのはパワーではありません。パワーによるコントロールで得られる安心ほど脆弱なものはありません。いかに安心な状態にコントロールしようと力んでも自分や周囲をコントロールしきれるものではありません。
よく外面(そとづら)の非常に良い人が、一方でアルコールを過飲したり、アルコールは飲まないけれども家族に対してひどい発言を繰り返したりする場合があります。このような場合、心は非常に不安で脆弱な状態にあります。不安のために自分自身や他者を暴力的にコントロールしようとしているのです。そしてそのような無理な姿勢が常態化してしまっているのです。
「いい人」「できる人」と思われていたら安心だと他者の機嫌や世間体に心を砕いても、自分も人の機嫌もコントロールはできないものです。もししようとするならば莫大なエネルギーを要し、「自分」という存在の秩序は危機に瀕するでしょう。その破綻を回避しようとして、アルコールや過食、買い物やギャンブルなどでバランスをとっている人は多数います。またどうしても配偶者や子どもなどの身近な人間を暴力的な言動で支配しようとする行動に走りがちです。
このように私たちの心が不安定であるとき、身体的にも社会的にもさまざまな弊害が生じてくるのです。
《心の平安と自己肯定感》
それでは心の安定性とはどのようにしたら得られるのでしょうか。
どんな建物でも単なる堅牢さだけでは長年の地震などの繰り返しに対してはかえって脆弱であるといえます。全体が微動だにしない耐震構造よりも、ある程度の揺れを許容し、その復元力の方に重点をおいた免震構造の方が安定性が高いといわれています。しかしそのような免震構造にも、ここだけは決して破綻しないという土台や支柱が必要です。
筆者が医者になって間もない頃、尊敬する著名な精神科医に「精神療法の目的とはなんなのでしょうか」とお聞きしたことがあります。その先生は即座に「自己肯定感をあげること」と答えられました。
心の安定性にとって最も大切なことは、この自己肯定感ではないでしょうか。これこそがあまりにも変化が激しい現代社会における環境の激変を「免震」し得る土台となると思うのです。
次回その自己肯定感についてもう少し考えてみたいと思います。