第111回 心の病とはなにか(3)~個人とシステム~
“止まり木”求め さまよう心(山陰中央新報) | 2003年1月26日
現在の私たちにとってのストレスとは、外敵による外傷や寒冷や食料不足などの物理的な危険を意味しません。大部分が精神的なものであるといっても過言ではないでしょう。私たちは日々精神的なストレスにさらされ、次々と生じる不安への対処を日常的に行っています。
物理的な危機からはおおよそ防衛されるようになった現代。生きるということは個人が今の社会環境へ適応するということです。その過程で生じてくるさまざまな精神的ストレスを扱うのが精神医学や心理学といった分野の学問です。
《一貫しない生活体験と適応不全》
近代以降の社会環境の変化の速さはすさまじいものです。小規模の部族が多数散在するような社会では戦争に勝てないため、明治以降「統一化」「学校化」が進められ、また効率を重視するようになるため「都市化」も進みます。そのような社会システムは戦争(経済的なものも含め)には有利に働きました。しかしその一方で、精神的なストレスを激増させ「うまく生きられない」という適応に困難を覚える人々を激増させたのです。
私たちは幼少期からその環境で生きるために必要な体験を蓄積し、こうすれば安心して生きられるというスタイルを形成していきます。しかし現代の速すぎる社会の変化は、あまりにも一貫性のない体験を個人に与えてしまい、適応のスタイルを容易に形成できません。
家族の中でも一貫した体験が得にくく、家族の中ですら緊張が強いられてしまったりしています。また生育した家族の中では安定して生活できていたにもかかわらず、そこで培ったスタイルが、学校における体験、学校外での人間関係における体験などと「まとまり」がつかず、いつまでも安心できないといったことが生じます。
転校や転居、進学や就職、同じ会社内での部署の移動、上司や同僚の入れ換わりといった変化により、本人や周囲が驚くほどバランスを崩してしまう人が多いのは、このような理由によります。
《人を幸福にするシステムに向けて》
20年以上前、学校に行けないという不適応をおこした子どもは「心の病気」というカテゴリーでのみ処理されていました。「学校化」が徹底していたその頃は、周囲がそのような形でしか「仕方がない」と一息つけなかったのです。しかし年々その数が増していく中で「誰にでも起こりうる」「必ずしも病的ではない」ことであると認識されました。そして所属する学校や家族のスタイルやシステムを把握しないと、有効な対策を打てないことが明らかになってきています。
登校はするようになったが最も大切な自己尊厳(自分という存在に対する信頼感)をズタズタにされてしまったということにでもなれば、まさに本末転倒です。したがって「有効な対策」とは必ずしも登校援助ではなく、本人がプライドをもってイキイキと生きられる環境を与えていくための援助です。それは家族や学校側の考え方やプライドの持ち方なども机上に載せて検討していくべき問題です。
このような自己の尊厳をズタズタにされながらシステムの奴隷になってしまう傾向は、子どもだけのものではありません。大人にも同様のことが生じており、多くの人が緊張を強いられ、あせり、自分を責め、体調を崩しています。そして自分の幸福を見失ってしまいます。
人間はシステムの奴隷ではありません。システムは絶対的なものでも、どうしようもないものでもなく、これをつくっていくのは私たちです。容易に人を否定してしまうシステムというのはあまりにも原始的です。さまざまな人が否定し合うことなく共存でき、納得いく形で生きられる形に向けて常に改変していく必要があります。異なる価値観をもつ人間同士のコミュニケーションを前提としながら、良いシステムを構築していく姿勢をもつべきでしょう。
そして精神医学や心理学といった心の学問も「個人の病理」のみの扱いでは有効性を高めることは難しいでありましょう。