第104回 幸福の行方(4)~ガンバリズムと幸福(下)~

 「頑張って」という声のかけあいは、日本におけるさまざまなレベルの共同体において、人々を方向付けて、連帯を保つという機能を果たしていました。「戦争に勝つ」とか「経済的達成を得る」といったように共同体全体が一定の目標に向かっているようなとき、「頑張って」という言葉のかけあいは、お互いの行動の方向性を一致させ、連帯を強化するように働いたのです。そしてそのように「頑張れる」ことが共同体の中で自分の居場所を確保することでもあり、安心感につながっていたのです。

 

《一億総「お役人化」》

 しかしこれは資本主義の発展途上期と民族主義の高まりの時期が合わさるなどしていたからこそ都合よく機能していたに過ぎません。進むべき方向性が決まっていてそれをやみくもにやっていればOKなどというシステムが永続するわけがありません。無限に発展途上であるわけがないのです。
 早晩目的を見失い、モチベーションは下がる一方になります。現在の日本はまさにそんな状況でしょう。ほとんどの人が「決められたこと」をやることしかできなくなり、新しいことに挑戦して試行錯誤を重ねることをしなくなっています。小学生に将来の夢を聞いても「公務員」という返事。銀行も本当の起業家にはお金を貸さず、新しいことに挑戦することについては官も民も不寛容。経済も社会も硬直化しているという惨憺たる状態です。
 このような硬直状態においては、起業家精神の塊のような若者が切に望まれます。しかし今の教育制度ではそのような若者はなかなか生まれてきません。公教育が新しいことに挑戦できる人材を作ろうとはしていないのです。おそらくそのようなことを期待できる人材は不登校児の中などにまぎれこんでいるのでしょう。現在の「お役人再生産教育」が体質に合うようでは、本当は困るのです。平成の坂本龍馬はみなさんの家にいる不登校児の息子かもしれません。

 

《「アノミー」という不幸》

 いくら価値観が変化したとしても、私たちが人の中で安定したつながりをもって生活したいという思いは不変です。精神分析学的にいっても最も根元的な欲求は「連帯」であり、人間はそれが断たれてしまうと生きてはいけない存在なのです。自殺を社会学的に研究したデュルケムはその「連帯」を断たれた人間にとって危険な状態を「アノミー」と呼びました。ここ数十年の急激な社会の変化は日本社会に著しいアノミーを生み出しています。
 60年安保や大学紛争、「良い親子」の親殺し子殺し、酒鬼薔薇事件などの少年犯罪、深刻ないじめ問題、社会的ひきこもりなど、戦後に生じてきた数々の訳の分からない事件や出来事の大半はアノミーをベースにしています。真面目に頑張って生きようとすればするほどこのような事件の主役になってしまうのです。
 事件だけでなく、近年激増した拒食症・過食症なども、親とのつながりがあやしくなる思春期以降の「ポスト親」の不在が原因で発症します。彼女らも非常に真面目で能力の高い少女たちです。昔とは比較にならないくらい親が子どもに手をかけているにも関わらず、子どもの中で親への承認欲求と不満がおさまらないのも現代の子どもがいかに他者との連帯をもちにくいかを表わしています。つまりアノミーなのです。
 このように人間の最も根元的な欲求の危機である「アノミー」というこの上ない不幸が現代の日本に蔓延しています。その回復への処方箋にはどのようなものが考えられるのでしょうか。次回以降に触れていきたいと思います。