第89回 「自己感覚」を生きる(7)~「意味」と「狂気」~
“止まり木”求め さまよう心(山陰中央新報) | 2002年6月2日
何が「善きこと」なのか、意味や目的といったものが不明確なまま「頑張り」を他人に強制されたり、何かに向けて頑張ろうと自分自身も常に焦っている私たちはどこかで必ず頑張れなくなるときがきます。大きな挫折というわけでなくても、イメージ通りに運ばないことに何かしら不全感を抱き、イライラしていることがなんと多いことでしょう。そのようなイライラは私たちが周辺のさまざまなことに対して「これでいい」「仕方ない」という納得をもちにくく、「このようにしたらもっとよくなっていたのではないか」などと生じてくる自己不全感から際限もなく考えてしまうからです。
「人事を尽くして天命を待つ」という言葉を日本人は好みますが、実のところ多くの人は「天命」など待ってはいません。限りなく「人事」の力に重きを置いています。あたかも頑張ればコントロールできないものはないと考えているかのようです。つまり普通は意味に縛られて「人事」を尽くしすぎて、天命を待つ気などさらさらないのが私たちではないでしょうか。
《「感覚」の喪失》
私たちは自明でない意味や目的のために「もっと完璧に」「もっと素晴らしく」「より頑張ればもっとよくなる」と考えて追い立てられています。いったい私たちは何処にいこうとしているのでしょう。生まれ、成長し、老い、消滅していく一個の存在である私たちに絶対的、究極の目的などはありません。
人は羊水に浮かぶ無感覚な世界から押し出されたその瞬間から、他者やさまざまな現象と出合い、そのような外部との接触によって生じる自己感覚を目安に生きていきます。不足にも過剰にも「感覚」が発生し、必要なものには欲求が生じて受け入れ、バランス上好ましくないものには不快が生じます。そのようにして個体はバランスを維持します。そのような個々の集合体である外界もまた常に変化を抱えながら平衡状態を保っています。
しかし本来相対的なものであるはずの「意味」を私たちが絶対視するようになると、「感覚」が正常に働かずバランスが危うくなってしまうのです。
《「意味」が生む狂気》
肉食獣は空腹時にしか狩りをしません。満腹時には傍らを通る草食獣を悠然と見過ごします。もし肉食獣が空腹か否かを問わず草食動物を狩りまくったらどうでしょう。そのような暴走を自然界では「狂気」と呼びます。しかし「意味」に踊らされやすい人間はたやすく集団でそれに陥る多大なリスクをもっているのです。
相対的なものでしかない「意味」を絶対視し、「善きこと」をただ頑張るだけ、人に押しつけるだけで、私たちに他者や自然と共生できるバランスを得られません。このような無理な姿勢から、自然な活力が生まれてくるはずはないのです。