第82回 「パワー」から「コミュニケーション」へ(13)~「支配-被支配」からの脱却~
“止まり木”求め さまよう心(山陰中央新報) | 2002年4月7日
《攻撃性とは何か》
人間は理屈を発達させ、道具を発達させました。いつしか論理的・合理的に物事を考えられる能力は手段を緻密化、徹底化させました。しかしそこで生じてきたのは手段にすぎないことの目的化です。
人間の攻撃性とは本来自分の不満を他者に伝えるという共存のためには欠かせない自己主張です。「あなた私の足を踏んでますよ」「あなたたちの行為は私のグループにとって迷惑です」といった不満を表明できなければ他者との共存はありえません。攻撃性とは相手にダメージをあたえたり、抹殺したりするのが目的なのではなく、自分ないし自分のグループにとっての苦痛を伝えることで、相手との共存をやりやすくすることが目的なのです。
《共存を目的としない攻撃の出現》
しかし人間の歴史の中のごく最近の部分で、相手を殺戮すること自体を目的とした「共存のためではない攻撃」が出現しました。相手をいつでもコントロールできる、抹殺できるという「パワー」があってこそはじめて安心できるという考え方はわかりやすいですが愚かです。そのような考え方をあらゆる個人やグループ、国がしてしまったら、当然争いは絶えることなく、共存を不可能にしてしまうからです。
しかしそのような考え方は蔓延しており、その点についていえばアメリカ大統領も麻原彰晃も大差ありません。そして人が発達させた武器はいまや「ボタンひとつで相手を抹殺」というレベルに近づきつつあります。湾岸戦争の際に「まるで映画かゲームのように」目標を破壊していく映像に覚えた違和感は記憶に新しいところです。
《自己主張の工夫を》
自分の在り方、存在意義を他者に一方的に押しつけられたり、決められたりするという「支配-被支配」「依存-被依存」という関係性における安心が長続きするはずはありません。絶えざる不安に煽られて「完全なコントロール」という幻想に陥り、その行き着く先は「他者の抹殺」「自分の抹殺」といった方向性になってしまうのです。
価値観は無数にあり、全ての価値観は相対化が可能です。お互いが共存するために必要なのは、自分の不満を上手に相手に伝える工夫です。人に生じてくる感情にいちいち「善い悪い」があるわけではありません。大事なのはその一つ一つをどのように表現するかでしょう。まったく表現しなかったり、強引すぎる表現は無視されたり、誤解を招いたり、反発を買ったりしてしまい、相手から期待する対応を得ることはできません。そこで抑制や譲歩といったものをほどよくブレンドして自己主張していくことになるのです。
《「争い」をどう見守るか》
そのような両者の「争い」に対して周囲はどのように見守るべきなのでしょう。すくなくとも「どちらにつくか」という姿勢ではいけません。それはパワー競争の肯定であり、「支配-被支配」という関係性を強化してしまうからです。
「支配-被支配」という関係でものを考える姿勢が身についている場合、どうしても「よらば大樹の陰」的発想になってしまいます。子どもの頃から有形無形の支配を受け「いい子」を続けてきた優秀な若者たちが「究極の大樹(究極の依存対象)」を夢想して、それらしく振舞ってくれるオジサンを教祖に祭り上げてしまったのがオウムであったことを思い出して下さい。
どちらが強いとか弱いとかではなく、「自己主張を上手にしあい、落としどころを作っていくこと」が共存につながる道です。「争い」を見守る周囲の態度は、落としどころをつけやすくすることを目的とすべきでしょう。