第74回 「パワー」から「コミュニケーション」へ(5)~パワー信仰の時代と嗜癖(上)~

 これまでの時代は「パワーにより安心を得る」というのが主流でした。その中で人々は不安に煽られ、また人を煽りながら、より大きなパワーとそれによる安心を求めて走り続けてきました。地域で、学校で、家庭で、人々が「パワー」に没頭するうちに、いつしか「パワー」という“手段”を求めるほど、安心という“目的”は遠のくという皮肉な悪循環に多くの人が陥るようになりました。そして不安に煽られた人々の中から多くの「嗜癖者」が生まれたのです。
 嗜癖として主なものにアルコールや薬物への依存症、拒食症や過食症といったものがあります。また借金やギャンブル、買い物、さらには仕事といった行為が、社会生活や健康上に大きな支障が生じているにも関わらずコントロールできなくなるようなことまで含めます。嗜癖の問題は「パワー信仰」の拡大と共に大きくなってきたものです。
 安心のために個人が求めるパワーは人によってさまざまですが、社会状況が色濃く反映されます。今回は主に男性のパワーの求め方について述べたいと思います。

 

《男性の求めるパワー》

 男性が自分に不安を抱えているとき、「男らしさ」にこだわります。それは「仕事がデキる」とか「たくさん稼ぐ」とかいうあからさまなパワーです。男性はその生育歴上「男の子なんだから」といった形でさまざまなこだわりをもたされてきているのです。男性が酔いに快感を求めるとき、いかに自分がデキるかとか、カネをもっているかとか、腕っぷしが強いかなどといった話題を好むのはこのような形で「男らしさ」のこだわりから生じる不安から自分を解放しているからです。最終的には「誰か何とかして」という状態になり、日頃の無理な力みから逃れる“赤ん坊返り”は完結します。 このような不安からの解放作業が止めどもなく必要になってくると「アルコール依存症」ということになります。
 体質的にお酒は飲めないけれどもアルコール依存症的な特性をもっている人は「いかに自分が仕事がデキるか」「他人がいかにできないか」とか「自分がどれほど良い人間か」「自分がどんなに正しいか」ということを家族や周囲にまき散らしながら生活していたりします。人の反応に敏感でいろいろ気を遣うことから実際に「いい人」と思われている場合もあります。その一方でギャンブルや借金などに走っていたり、家族に対して黙りこくっていたり、逆に当たり散らしたりしています。
 いずれにしても自身の脆弱性を覆う堅固な防衛スタイルは人間関係から安心感を奪い、その維持を困難にしてしまいます。父親がアルコール依存症であったある老人の以下のような述懐を何かの機会に目にしたことがあります。
「自分は親のようにだけはなるまいと思って生きてきた。今60歳になって思うのは自分と父親の違いは1つだけ。親父は酒で死んだが、自分はそうではなさそうだということだけだ。」
 これは嗜癖の本質である生き方の問題を表わしているのです。