第67回 コミュニケーションを考える(10)~学級崩壊への処方箋(上)~
“止まり木”求め さまよう心(山陰中央新報) | 2001年12月15日
「戦争に勝つ」「豊かになる」などの国民の大半が共有している目的がないまま“軍隊スタイル”での教育に固執するのはナンセンスであることを前回述べました。義務教育でやるべきことは子どもをいかに「動機づけるか」にすべてがかかっています。その動機づけをないがしろにし、旧態依然とした“指導”を続ける限り、学校現場の“秩序”は崩壊を続けることでしょう。
《「ゆとり教育」とは何か》
学問やコミュニケーション(いわゆる社会性)に対するモチベーションを向上させることが義務教育における大きなテーマです。
文部省の方針として“ゆとり教育”“個性重視”ということが叫ばれて久しいわけですが、これが何を目指しているのかについては現場がついていけず混乱が生じています。従来の義務教育における“詰め込み”は社会における学歴信仰が薄れる中で成立し難いものになっていることは確かです。また “詰め込み教育”は学問に対する動機づけを向上させるどころか喪失させるという結果をもたらしてしまいます。それゆえに最も伸びる時期である大学時代において学問に見向きもしないという弊害が生じてきたのです。
学問への興味を枯渇させてしまう教育などトータルで考えれば「やらない方がマシ」としかいいようがありません。ですから“ゆとり教育”の眼目は「円周率を3.14から3に簡略すること」にあるわけでなく、円周率のような基礎概念へ動機づける(興味関心を向ける)ためのものなのです。
興味や関心の持ち方というのはまさにその子の個性であって、それに沿った形で学問や共生論理を持ち込む必要があります。何十人もの子どもを相手にした場合、一方通行の単なる“詰め込み授業”になってしまいやすいのです。少人数学級が望ましいのは、子どもたちを動機づけしやすい状況を作るためなのです。動機づけに失敗すれば、現在の社会的背景においては授業の成立自体が不可能です。
不登校や学級崩壊に対する処方箋はいろいろ言われていますが、旧来の“軍隊スタイル”を前提としているものは全て無効であるといえるでしょう。筆者が想定する有効な方法には大きく分けて2つの方法があります。
《少人数学級のリスクと利点》
ひとつはいわゆる少人数学級による方法です。ただし現在のスタイルのまま単に人数を少なくするのでは意味がないどころか有害です。注意すべきは “指導強化”のための少人数制ではないことです。このあたりを間違えるといずれもっと激しく崩壊するでしょう。
しかし現在のように決まったクラスに決まった教師が職員室から出向くという形を継承したまま、常に子どもたちを動機づける授業を展開していくという作業は、少人数といえども容易ではありません。教師個人のコミュニケーション能力に大きく依存した方法ですから、当然教師の育成方法も併せて議論する必要があります。少人数クラス制に必要な大量かつ優れた教師をどのようにして供給するのか。これはとても難しい問題です。いずれにしても現状の供給システムでは無理であり、少なくとも当面は社会全体からコミュニケーション能力に優れた人材を募るしかありません。
次回は教師個人の能力に依存しないもうひとつの方法について考えてみようと思います。