第44回 大阪の児童殺傷事件(4)
“止まり木”求め さまよう心(山陰中央新報) | 2001年7月7日
前回は法治国家としての父性原理が抑止力を失った理由について、司法の面から考えました。今回は父性とは何かということと事件の背景となる日本全体を覆う父性の欠如について考えてみたいと思います。
《犯人の父親》
宅間容疑者は旋盤工の父と母、7歳年上の兄の4人家族でした。父親(68)は5人兄弟の長男で、長兄として兄弟を支えてきた人です。当時の高等小学校を出てすぐ、13歳で工員として働き始め、数カ所に勤めた後、伊丹市内の紡績機械製造工場に落ち着いています。農家の出身の母親(71)とは職場結 婚でした。「家事をてきぱきできない。清潔さに対する認識も違って、衝突することが多かった」「夫婦仲の悪さは自他共に認める」などと父親は語っています。
この父親は「しつけ」のことに話が及ぶとさらにシラフではなかなか言えないような持論をとうとうと展開します。「自分もほったらかしで育ったから『健康で明るければそれでええ。出世も金もいらん。人並みの生活でええんや』と言ってきた」「礼儀作法、特に朝のあいさつと人の目を見て話すことには厳しかった。声が大きいので子供たちはわしの前では委縮していた」「『日本主義』『大和民族主義』という形の教育だった」
いずれの発言からも想像されるのは全体主義国家のように独裁者たる父親の気分に左右される不自由な家庭です。それにも増して気になるのは、「勘当したから」とか「いつかはやると思ってた」などという他人事のような発言の数々です。
《必要不可欠な父性とは》
人間の成長に必要な父性とは「好みの問題」に属するような細かいことに鉄拳を奮うことではありません。人が生涯そのパラダイムで生きられる人間関係の基盤となる枠組みを与えることです。「人を殺してはいけない」などという枠組みも当然含まれます。父性によって形成されたその枠組みの中は、父性が責任をもつ「内なる」世界です。その中で人は人間関係を結ぶことができます。
ちなみに母性とは人間関係を紡ぐことです。そこで必要なのは知識でも概念でもありません。真っ正面から子どもと向き合い人間関係を結ぶことです。なお父性は男性、母性は女性と決まっているわけではありません。逆でもいいし、両方を一人でやってもいいわけです。
父性のカリスマは暴力的な力ではなく、責任をとることによって高まります。父性が枠組みした「善悪」について、「内なるもの」について、どれだけ責任をとれるかいうことが権威なのです。
現在の日本はまさに父性欠如が蔓延しています。誰も責任をとることをしない社会です。官僚スキャンダルや薬害エイズ問題などをみれば一目瞭然ですが、日本中にこの種の無責任ははびこっているのです。以前、薬害エイズ問題で川田龍平氏と厚生省官僚のやりとりをニュース番組でみていて気分が悪くなりました。そのとき筆者は「この官僚の息子だったら自分は自殺したくなるだろう」という感想をもちました。
自分自身が善悪を「バレなければいい」程度に考え、「内なるもの」である子どもに責任をもたず、妻も大切にしないという成人男性がマジョリティーをなしているのが現代の日本です。今問題とされている「叱れない父親」も気分次第で怒鳴るだけの父親もこの無責任さは共通しています。そのような状況の中で今回の事件は起こりました。
あなたはどう考えますか。宅間容疑者親子は私たちがみようとしない私たちの姿なのかもしれません。